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内容はまったく同じですが、bloggerはガラケーで閲覧ができないため、こちらに同じものを設置することにいたしました。
この二カ所以外で、鑑定受付を行うことはございませんので、ご注意ください。


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2033_03_03



    1

 陽は中天から傾きかけていた。
 その下であくことなき惨劇が繰り広げられ続けていた。意宇の湖から押し寄せてきたのはタジマの水軍だった。その増援を受け、オロチ軍はじわじわとカナンを小山へと追いつめて行った。ヤイルという司令塔を欠いたカナンには、もはやこれを押しとどめる力はなく、事態は絶望的だった。
 その絶望感と恐怖が、さらに戦場を惨たらしいものにした。狂気じみた最後のあがきを行うカナンは、全滅を覚悟で武装に物を言わせ突撃した。もともと装備は圧倒的なカナンである。オロチにも甚大な被害が出、川沿いの狭い平野は屍で溢れ、血と死の匂いで満たされた。
 しゃにむに山越えをしてきたイタケルは、その有様に唸った。「こりゃあ……」
「カナンはもはや……」と、隣でモルデが絶望的な呻きを上げた。
 彼らはイナバ・タジマから帰還した。大規模な戦乱の情報を耳にし、佐草へ戻る以前に現場に向かったのだ。
「あれは……」カイが叫び、指差した。
 その戦場からやや離れた南の山近くに、スサノヲとカガチの対峙する姿があった。まるで銅像になったように両者は睨み合っている。
 ずしんという重い響きと共に、重苦しく身をよじるような鳴動が大地に生じた。
「地震だ……」イタケルはそばの樹木につかまりながら、眼を遠くの二人に釘付けにしていた。
 地震が静まった。その瞬間、両者に動きが生じた。

 動いたのはカガチが先だった。剣に溜めた〝気〟をいきなりスサノヲに向かって叩きつけたのだ。瞬時にスサノヲもまた同様に剣の〝気〟を放ち返した。二つの〝力〟が間で衝突し、周囲にものすごい衝撃波となって広がった。
 カガチは間髪を入れず、幾度かの剣圧を放った。スサノヲもまたこれに応じた。爆発のようなものが二人の間で起き続け、そして相殺され続けた。周囲にはじけ飛ぶ暴風の中、カガチの黒頭巾は吹き飛ばされ、その頭部にある二本の角があらわになった。
 馬の駆けつける音がした。それを耳にし、カガチは〝気〟の砲弾を放つのをやめ、わずかに振り返った。馬の背からアカルが下りるところだった。
「何をしに参った」と、カガチは苛立ったように言った。
「カガチ、あなたをお助けするために参りました」
「おまえの助けなど要らん」
「いえ、あなたは助けを求めておられます。わたしだけがそれができるのです」
「戯言(ざれごと)を言うな! 下がっておれ!」
 言下にカガチは跳躍した。スサノヲとの間の距離を、助走すらなく一気に詰め、剣を振り下ろす。スサノヲは横へ跳んでよけたが、カガチの剣圧は大地をえぐるようにその場に大きな窪みを作った。
 そこから二人の死闘が始まった。常人の動体視力では追うことすら難しい、目まぐるしい動きだった。剣というものを持っていなければ、二人揃って何か狂おしい踊りを演じているかのようでさえあった。しかし、その動きには個性の違いがあった。
 カガチの剣の舞は直線的で、圧倒的な剛力に満ちていた。パワーでは勝り、一撃一撃の衝撃は半端なものではなかった。それを受けるスサノヲの身体は、しなやかにくねり、俊敏な軽やかさに満ちて、弧を描くようだった。
 まともに剣を合わせれば、いかにカナンの宝剣といえど、フツノミタマの剣にはかなわない。折れてしまう危険性が高かった。そのためスサノヲは、カガチの繰り出す剣をすべて受け流すように力を逃がしていた。剣の合わせ方も、受ける腕や手首の力までも、すべてをコントロールしていた。
「こしゃくな」意図を悟ったカガチは猛然と攻撃を叩きつけてきた。
 どれほどごまかしたところで、いずれスサノヲの剣は折れる。そのような確信がある連続攻撃だった。受け切れずに後退し、背後に巨岩が迫る。スサノヲはむしろ後ろへ加速し、その岩を蹴ってカガチの頭上を飛び越えた。その意図をカガチは読んでいた。頭上へ剣を突き上げる。あやうく身体を捻ってかわして着地するが、すぐに目の前に蹴りが迫った。巨大な猪に突き飛ばされるほどの衝撃に見舞われ、後ろへ転がる。
 追いかけるようにしてカガチの剣が、スサノヲの身体を狙って降り注いだ。それをかろうじてしのぐが、スサノヲの動きをあたかも予知しているようなカガチの猛攻だった。
 読んでいるのだ、とスサノヲは理解した。隙を見て、跳ね起きると距離を取る。
 瞬間的なものであろうが、カガチはスサノヲの考えを読み取っている。その〝力〟はおそらくヨサミから与えられたものに違いなかった。
 スサノヲがクシナーダと交合したのち、彼女の〝力〟の一部を共有しているように、カガチにもまた同様な感応が生じているのだ。
 ならば、とスサノヲは静かに剣を構えた。
 カガチは空気が変わったのを感じた。スサノヲからそれまで濃厚に伝わって来ていた意志が、ふっと手が宙をつかむような感じで失われてしまったのだ。
 と、次の瞬間。
「うおっ?!」
 思わぬ鋭さで伸びてきたスサノヲの剣が、彼の顔をかすめた。もし反応が鈍ければ、首を斬られていたかもしれなかった。
 面白きやつ……。カガチは笑った。スサノヲの中には今、なにもない。いわば、無の境地なのだ。このような相手にはかつて一度も遭遇したことがなかった。カガチの闘争本能をこれほど刺激し、高ぶらせる存在はいなかった。
 雄叫びを上げた。カガチは闘神そのものと化し、スサノヲに向かって行った。
 それは無限に続くような荒々しい二人の舞踏であり、その隙間には誰も入り込むことはできなかった。
 アカルを追いかけてきたヨサミも、その戦いを目の当たりにし、棒立ちになった。それはもはや人間の戦いではなく、次元の異なる神々の死闘そのものだった。そこへアカルはわずかずつ距離を詰めているのが目に入り、思わず大声を上げた。
「おやめください、アカル様!」
 あの二つの竜巻がぶつかり合うような場へ踏み入れたら――。
 きっとアカルの肉体は、粉々に寸断されてしまうに違いなかった。


「こちらです!」
 先駆けていたカーラの声が聞こえた。スサノヲの後を真っ先に追いかけていた彼は、今は岩場の上に立っていた。クシナーダたちは山の斜面をかき分け、ようやく追いつくことができた。
 その岩場からは、今まさに死闘を演じているスサノヲとカガチを間近に見ることができた。全員が、息が切れていた。
 その戦いを目の当たりにした瞬間、クシナーダは火で焼かれるような焦りを覚えた。今すぐにスサノヲを助けに行かねば、という焦慮だ。
「アカル様が……」アナトが息も切れ切れに言った。
「皆さん、呼吸を整えましょう」クシナーダは懸命にみずからを鎮めながら言った。「わたくしたちがしなければならないのは……この場の浄化です。あの二人のいる場所、空間全部を浄化しなければなりません」
「どうすれば……」シキが言った。
「ナオヒ様はこちらにいらしてください。この岩場の上からお力をお貸しください。わたくしたちで二人を囲みます」
「囲む?」ニギヒが驚く。「あの場に行くのですか。危険です」
「そうしなければ、浄化は難しいのです」
 ニギヒは眼下で演じられている超常の戦いを見た。それは獰猛な肉食獣同士が死闘を演じているところへ踏み込むのと同じだった。迷った挙句、彼は決断した。
「なら、わたしたちで背負わせてください。息が乱れては浄化も難しいでしょうし、わたしたちがお守りいたします」
「お願いいたします」クシナーダは素直に好意を受け入れた。
 クシナーダはニギヒに、アナトはカーラに、他の巫女たちはニギヒの配下に背負われた。そしてニギヒはそれぞれに一人ずつ護衛をつけさせた。エステル、オシヲ、スクナは、護衛の二人と共にその場のナオヒの元へと残された。
「よし。行くぞ」
 勇を奮い起こし、ニギヒは先頭で走り出した。岩場の左右から、スサノヲとカガチを取り囲むように走り出す。
 その姿は戦っている二人の視野にも入った。一瞬、気を取られたカガチに対して鋭い打ち込みが入り、彼の頬を再び刃がかすめた。
「チッ!」カガチは得意の蹴りを放ち、スサノヲを遠ざけた。
 二人を取り込む位置に、巫女たちは降り立った。
 カガチは頬の血を拭った。その傷は見ているうちにふさがった。鬼となることで、カガチの肉体は不死性とも言える、異常な回復能力を備えていた。
 眼を左右に動かし、そしてやや首を振り、背後を確認する。
「何の真似だ」さすがに息を荒くしてカガチが言った。
 アカルを含めた三人は円弧の中にいた。
 カガチは殺気とは異なるものではあったが、悪い予感を抱いた。その円弧の外へ出ようと動いた。が、それはスサノヲが許さなかった。スピードではわずかながらスサノヲに分があったし、スサノヲ自身もまたカガチの意志を察することができた。
 助走をつけて円弧を飛び越えようと謀るが、それすら宙でスサノヲに止められ、中へ留めさせられてしまう。ちっと舌打ちし、カガチは周囲に吠えた。
「おまえら……このような振る舞いをして、ただで済むと思っているのか。おまえらの家族、民たちは我が手中にあるのだぞ。それを忘れたか!」
「いいや!」
 声が響いた。
 イタケルが東側の小道を降りてくるところだった。続くモルデ、カイ、そしてカナンの精鋭兵たちは、ぼろぼろの汚い身なりにはなっていたが、眼だけは精悍に輝いていた。
「モルデ!」岩の上からエステルが驚きの声を上げた。
 そのエステルの姿を遠目に確認し、顔色を変えるヨサミ。
「タジマやイナバのタタラ場からは、人質をすべて解放してきた! もう何の遠慮もいらねえぜ!」イタケルは自慢げに吠えた。
「間に合った……」アナトが洩らしたのは、紛れもない安堵そのものだった。
 キビの巫女たちに歓喜と言っていい波動が広がった。
 その空気の中、クシナーダはうなずきを周囲に送った。そして、再び浄化のためのヒビキを送り始めた。
 ア――――。
 アナトが、シキが、ナツソが、イズミが、そしてナオヒが。
 その声は美しく折り重なりながら、その場の気配をみるみる変えて行った。それは当たり前の人間にとっては、これ以上もない心地よさを感じさせるヒビキだった。
 だが、カガチは不愉快そうにそのヒビキに顔を歪めた。
「やめろ……」クシナーダに向かって行く。
 その目の前にスサノヲは剣を振りおろし、彼を後退させた。
「やめろおぉぉ!!」
 巫女たちの胸で勾玉がいっそう際立った輝きを見せ、それぞれの巫女を丸く包んだ。そしてそのヒビキと光はその空間すべてを包み込んだ。
 カガチの目の前にもっとも見たくないものが立ち現われてきた。それは母の死の姿だった。何人もの男たちに凌辱され、殺された母。その血まみれの姿……。
 カッとその母の眼が開いた。そしてカガチを見つめてきた。憎悪の眼で。
 ――おまえが殺したのよ、あたしの大事なトムルを。
 ――おまえなど生まれなければよかった。
 血まみれの母が、幾度も幾度も呪詛を投げかけてくる。兄(トムル)の死の責任を浴びせ続ける。
「やめろ! やめさせろぉ!!」
 カガチはその母に対して憎悪を爆発させた。やみくもに突進し、剣を振り下ろす。そこには、現実にはスサノヲがいた。スサノヲはカガチの剣を受けたが、その憎悪のエネルギーの大きさに、両者は正面衝突したように互いに弾き飛ばされた。
 カランと音を立て、フツノミタマの剣が地面に落ちた。
 それはヒビキを送るシキのすぐ目の前だった。カガチは跳ね起き、シキに向かって行こうとした。離れた場所に飛ばされたスサノヲはそれを察したが、さすがに間に合う距離ではなかった。
 シキのそばで護衛の兵士二人が剣を構える。
 その時、シキは浄化のヒビキに満たされながら、すでに動き出していた。カガチよりもいち早く。
 彼女はフツノミタマの剣に手を伸ばし、それを拾い上げた。
 二つのことが続けざまに起きた。幾多の人の血や怨念を吸い、妖刀と化していたフツノミタマの剣が、彼女の手が触れた瞬間にその強い浄化の力を受け、魔の気配を消し飛ばしたのだ。そして本来の輝きを取り戻した剣の〝力〟が、シキの身体を貫いた。めくるめくような心地の中、シキは迫ってくるカガチを見た。
 熱いものが身裡から立ち上がってきた。
「さがれっ!!」
 シキは右の掌をカガチに向けて突き出した。黄金色のようなオーラがほとばしった。
「うおっ!?」
 突進してきていたカガチの巨体が吹っ飛ばされた。起きたことが信じられないというように身を起こしたとき、彼の前にはスサノヲが立っていた。
 ヤイルがそうしたように、カガチはスサノヲに殴りかかった。スサノヲはその左右の拳を受け止めた。しかし、カガチのほうが手は大きく、やがて両者は両手をがっちりと組み合わせる形で対峙した。じりじりとカガチが圧力を強めて行く。
「馬鹿が……俺に力で勝てると思うのか」
「どうかな」
 浄化のヒビキがさらに満たされる。その中でカガチは、じわじわと己の鬼神の力が制限を受け始めるのに気付いた。そして――。
 カガチは背中に人の気配を感じた。
 アカルだった。
 彼女はそっと背後から、カガチを抱きしめた。いつか、ヨサミがしたように――。

    2

 ――わたしの巫女としての〝力〟は、特殊なものです。
 クシナーダや他の巫女たちは、アカルが語るのを思い出していた。意識が共有されている中で、彼女たちは記憶も、それを再生させることも共有していた。
 ――皆様も巫女として、世の中や人が持つ気配を受け取ってしまうということは理解していただけるでしょう。わたしの〝力〟は、それを極限まで広げたものなのです。多くの巫女たちは自分の身を守るために、いくつかの感応を無意識に制御したり、閉ざしたりしています。でも、わたしはその気にさえなれば、すべてを受け入れてしまうことができるのです。何も関門がない人間なのです。
 何も関門がない。それはあまりにも衝撃的な告白だったが、これまでのアカルが示してきた様子から納得させられるものでもあった。
 ――それはつまり、どのような闇であってもわたしは呑み込んでしまえるのです。ただその瞬間には、わたしはきっと闇そのものになり、人でさえなくなってしまうかもしれません。気が狂って壊れてしまうかもしれません。
 わたしの母もまた同じでした。母は早くからわたしのことを見抜いていました。ですから、身を守るための術を子供の頃から教わっていました。それがなければ今日まで生きては来られなかったでしょう。母は……早くに亡くなりました。わたし自身、きっと長くは生きられません。いかに制御して、浄化をしていても、この世の穢れは少しずつわたしの身を蝕んで行くからです。
 ――そんな〝力〟をカガチに対してお使いになるのですか!?
 アナトの問いかけは悲鳴に近かった。
 ――この〝力〟はきっと、この日のために与えられたもの……。そのように理解しております。
 ――そんなことをしたらアカル様が死んでしまいます!
 ――なぜ、カガチのためにそのような……。
 ――やめてください。お願いです!
 巫女たちの動揺と慰留をよそに、アカルはこの上なく穏やかだった。
 ――イスズ様がご自分の使命のために命を懸けられたのと同じように、わたしもここが命の懸けどころなのです。それはわたしがしなければならないこと……いえ、わたしがしたいことなのです。
 巫女たちは絶句した。
 ――それにイスズ様も申されていたでしょう。〝それでも……〟と。

 それでも、と巫女たちは意識を共有して思った。
 わたしたちは決してあきらめない――。
 絶対にアカルを死なせない。
 アカルをもし失ってしまえば、〝黄泉返し〟は不可能に近くなる。そんな事情があるからではない。ことトリカミに幽閉されて以来、同じ時間と空間を共有する中で、巫女たちは互いの愛すべき資質を分け持つようになった。
 ありていに言えば、好きになっていた。
 理由はそれで十分だった。

 しばらくアカルは、固定されたカガチの背中に寄り添っていた。が、あるとき、胸をかきむしるようにして離れた。
 二人の間には離れた後も、青黒いようなオーラがつながっていた。そのオーラには流れがはっきりとあり、カガチからアカルへと、まるで濁った血液が流れ込むように見えた。
「うぐ……あ……ああ!」
 アカルは両手で頭をつかみ、大蛇のように身体をのたうたせた。苦悶に形相が変わっていく。ただ苦しいというのではない。カガチの身裡にあるものが、そのまま乗り移って来たかのように、ものすごい怒り、悲しみ、憎しみといった形相となって、次々に現れた。それは巫女たちの肝をひしゃげさせるほど恐ろしいものだった。
 カガチもまた異変が起きていた。彼は対峙していたスサノヲとの力比べを放棄し、ふらつきながらアカルと同じように両手で頭を抱えた。そしてものすごい音量で吠えた。絶叫し、地面に倒れ、転がりまわる。全身の肉と骨がきしむような痛みに見舞われていた。
 ――もっと浄化を。
 巫女たちは誰もが想い、意識を集めようとした。だが、アカルのあまりの苦しみように意識がぶれた。焦れば焦るほど、調和のヒビキには乱れが生じた。
 アカルの胸もとで輝いていた勾玉。
 ビシッ、とそれにひびが入った。そのひび割れは瞬く間に全体に広がり、そして勾玉は粉々に砕け散った。
 びくっとアカルは空を仰いだ。両手で身体を抱きかかえるようにする。アカルの肉体は自然に宙に持ち上がった。吸収している〝力〟が膨れ上がり、彼女の周辺に滲み出そうとしていた。それを彼女は自らの中に抑え込もうとした。
 その一方でカガチもまた激しい苦悶にのたうちまわっていた。涎を流し、充血しきった眼は頭蓋骨から飛び出しそうになっていた。ぎしぎしと身体が収縮していくようだ。
「ああ!」
「アカル様が!」
 堪えきれず、巫女たちは叫んだ。
 アカルの腹部が異常な勢いで膨張していた。みるみる、まるで臨月の妊婦のように膨らんで行く。それはカガチから吸収したものが、鬼子となってそこに宿っているかのようだった。
 きゃあ、と若い巫女たちは悲鳴を上げた。そのさまは、彼女たちにはあまりにもショッキングなものだった。
 クシナーダは浄化のヒビキを送りながら、やはり悪夢のような違和感の中で、心が揺れを抑えることができずにいた。
 ――これで良いのです。
 アカルの意識がよぎった。
 次の瞬間。
 アカルの身体は宙で回転し、地上に投げ落とされた。その腹部が次第にしぼんでいく。が、彼女はピクリとも動かなかった。
 彼女の周囲から真っ黒な霧の如きものが上空へと立ち昇って行った。何者かがそれを狂喜して迎えている。
 カガチも動かなかった。
 近くにいたスサノヲが、真っ先にアカルのそばに寄った。後から、他の者たちが近づいてくる。
「アカル様……」クシナーダはアカルのすぐそばに膝をついた。
 すでに息絶えていたかと思われたアカルは薄く目を開いた。しかし、声を発する力ももはや残されていない様子だった。
「アカル様!」
 巫女たちは泣き出しそうな声をかけ続けた。
「……なぜだ」
 呻き声がした。カガチは横たわったまま、空を見上げていた。起き上がろうとするが、もう何十年も動かしていなかった肉体のように、筋肉も骨も強張り、しかもとてつもない脱力感と喪失感があった。
 彼の頭部には角がなかった。
 彼はかつて鬼に変化する以前の肉体に戻っていた。一回り以上、小さく見えた。かろうじて上体を起こし、そして彼は自分の小さくなった手を見つめていた。
「なぜこんなことを……」
 カガチはゆっくりとアカルの方を振り返った。
「なぜこんなことをした!」叫んだ。そして這いずるようにして、アカルのそばへやって来た。「なぜだ! 答えろ! アカル!」
「…………」
 唇だけが動く。が、何を言っているのか、アカルの声はもはや耳では聞き取れなかった。眼だけは優しげに、覗きこむカガチを見つめている。
「アカル様は、カガチ、あなたのお母様です」
「な、なに!?」馬鹿な、というようにカガチはクシナーダを振り返った。
「正確には前世のお母様です。あなたがたは前世、この国で暮らす親子だった。しかし、そのとき火山噴火に伴う大火事ではぐれ、お母様はあなたのことを気にかけながら亡くなったのです。逃げ惑う人々の中で手を離してしまった息子、幼いその子を猛火の中に置き去りにしてしまったかもしれない罪の意識にさいなまれながら……」
「アカルが……俺の……」
「あなたは生き延び、いなくなってしまった母親を生涯探し続けた……。そんな前世だったのです。そして今回、アカル様は同じように母を喪って苦しむあなたを救うために、この同じ時代に生まれてきたのです」
 アカルの手が、震えながら、わずかに持ち上がった。その指が、カガチの頬に触れた。
 ――わたしのヒボコ。
 そう呼びかけた。そして、その手は下に落ちた。
 アカルの眼は閉じられた。
 安らかな死に顔だった。
 彼女を取り巻く人垣から少し離れた場所で、ヨサミもまたその死を見つめていた。
 カガチの背が震えていた。アカルのそばににじり寄った姿勢のまま、突っ伏すようにして、長くそうしていた。涙が彼の顔面の下に、水たまりを作っていた。
「抱いてお上げなさい」と、クシナーダが言った。「抱きしめてよいのですよ。きっとアカル様も喜ばれます」
 カガチは涙と鼻水で濡れた顔を上げ、苦しみながら身を起こした。そしてアカルの身体に手を伸ばし、躊躇したのち、抱いた。
 堰を切ったように、彼は号泣した。
「こんなふうにして……」スサノヲの肩に泣き顔を押し付けながらクシナーダが言った。「救われる魂もある……」
 巫女たちも涙していた。が、イズミが正気に返ったようにつぶやいた。
「アカル様が亡くなられてしまった……」
 アナトもはっとなる。「これでは〝黄泉返し〟が……」
 涙を拭いたシキは、自分が抱きしめている剣の存在に気づき、スサノヲの前に進み出た。フツノミタマの剣を彼に捧げる。
「ありがとう」スサノヲは受け取った。「そなたの浄化のおかげで、剣は光を取り戻した」
「いいえ。わたしなど――」
「なんだ――?」と、イタケルは声を上げ、上空を仰いだ。
 いつ間にか白昼だというのに、妙に明るさが陰り始めていた。太陽が雲の影に隠れたというのでもない。全体に薄暗くなってきているのだが、なにか太陽の光量自体が少なくなったかのようだった。
 太陽は傾いた空にあった。が、まぶしい光に目を細めながら見つめると、太陽がじわじと欠けてきているのがわかった。
「日隠れ――?」イタケルが言った。
 離れた場所で演じられていたオロチとカナンの死闘も、にわかに生じた異変に気づく者が増え、だんだんと静かになって行った。剣を合わせていたが、互いに棒立ちになる。弓をつがえていたが、引き手がゆるむ。そうして彼らは一様に空の異変を目の当たりにした。
 中には恐れおののく者もいた。日隠れを一度も経験したことのない人間も多かったからだ。
 太陽はやがてその輪郭だけを残し、完全に暗い円となった。
 それは多くの者の胸に、自分たちの悪しき行いへの鋭い警告と、災いの出現を暗示するものとして受け止められた。
「おかしい。日隠れにしても……日が出て来ない」ニギヒも動揺を見せた。
「空が……真っ暗になっていく」エステルが言った。
 上空には暗雲が濃密に垂れ込めはじめた。そしてそれは待てど現れぬ日蝕の太陽さえも覆い隠して行った。巫女たちはこの時すでに、誰もが恐ろしい不快感、頭痛などに襲われていた。
「来るぞ」スサノヲはフツノミタマの剣を握りしめ言った。
 真っ暗になった空の一角が切れた。青空が見えたのではない。なにか暗黒の淵が裂けたように、その裂け目からどろどろとしたものが地上に落ちてきた。それはまるで動物のはらわたそのものようだった。赤黒く照り、しかも異様な瘴気のようなものをまとっていた。
 ぼたぼたと空から落ちてきたそれは、触れた者を一瞬で悶絶死させた。広がっていく瘴気の中で逃げ惑う兵士たちはその場で立ち腐れ、次々に白骨化して行く。まるで悪夢のようだった。恐慌状態に陥った兵士たちは、敵も味方も関係なく、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出して行く。
「なんだ、あれは……」ニギヒが唖然としていた。
 空から落ちてくる溶岩流のようなものが止まった。
 濃厚な瘴気の中から、それが禍々しい姿を見せた。

 巫女たちは悲鳴を上げた。
 それはいくつのも首と尾を持つ大蛇だった。しかし、身は一つ。てらてらと輝く巨大な胴回りは、大人が何人も手をつなぎ合わせるほどの大きさで、そこから大蛇そのものとしか思えない形状の首と尾が長々と伸びている。だが、その身体のすべては腹を断ち割って取り出されたばかりの内臓のようであり、見るだけで吐き気を催すほどのグロテスクさだった。
 八つの首には睨まれただけで狂気に誘われそうな酷薄な双眸がらんらんと輝き、開いた口からは巨大な牙と割れた舌が覗いている。牙から垂れ落ちる液体は、地に落ちると強酸のように、じゅうと音を立てた。
 そして戦場だった場所は、かつて以上の地獄と化した。化け物は次々に兵士たちを呑み込み、吐きかける瘴気でたちまちに腐らせた。それは眼を背けたくなる凄惨な光景だった。見ているだけで全身が冷や汗でまみれて萎え、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。
 両軍合わせて何百と残されていたはずの兵士たちが、次々に喰われ、溶かされ、引きちぎられた。その猛威は、荒ぶるカガチでさえ比ではなかった。
 カイがその場で腰を抜かしたようになった。「ば、化け物……」
 全軍を瞬く間に壊滅に追いやったそれは、複数の大蛇の鎌首を次なる獲物に向けた。ヨサミはやや海に近い場所にいた。思わず後ずさる。
「ヨサミ!」アナトが叫んだ。「こっちへ!」
 かつての確執など、この際、問題ではなかった。
 その化け物は急速に彼らのほうへ近寄って来ていた。
 ヨサミが駆け寄って来るのと反対に、スサノヲは剣を手に前へ出た。
「だめ! いけません、スサノヲ!」クシナーダが叫んだ。
 その声を振り切るようにスサノヲは走り出し、ヨサミとすれ違った。窮迫する化け物とはまだ距離があったが、フツノミタマの剣を大きく振るった。
 剣は白金色に輝いた。それはかつてのその剣とももはや異なり、シキを通じることで強い浄化の〝力〟を得ていた。
 剣の波動が霊的なオーラとなり、化け物を打ち据えた。
 キャーンともヒャーンともつかぬ、金属的な悲鳴のようなものを上げ、化け物はにじり寄って来るのを止めた。
「今のうちに逃げろ!」スサノヲは背後に向かって叫んだ。何度も。「早く!」
 ヨサミは、カガチをアカルから引き離した。彼は五体がろくに動かなかった。ヨサミが彼に肩を貸そうとしていると、イタケルとニギヒが左右からカガチを支えた。
「スサノヲ! あなたも早く!」
 クシナーダと他の巫女たちは、皆、勾玉を手に掲げていた。
 その光は、半ば闇の世界と化した中で、ひときわ強く輝き、化け物と瘴気の侵入をとどめていた。スサノヲは二度三度と剣をふるい、大蛇の首の一体に傷を負わせた。
 キャ――――ン!
 ひるんだ隙を見て、彼は踵を返した。

    3

 巨大な魔物に追いかけられ、逃げ惑う悪夢――。
 誰もがそのような錯覚を抱いた。そのような恐怖は、本来は夢の中にしか存在しえないものだった。が、彼らが味わったのは、この現実の世界の中でのことだった。
 途中まで追いすがってきた大蛇の化け物は、スサノヲの幾度かの反撃を受け、かろうじてその鳴りを潜めたが、ひと山を越え、斐伊川のほとりに出たときには、誰もが息も絶え絶えになっていた。すでに日も暮れているはずの時刻だが、日隠れ以来、ずっと夜が続いているように思われた。
 川の水を飲み、わずかばかりの休息を得た彼らの間で、ようやく言葉を交わす余裕が生まれた。この瞬間に至るまで、誰もが生きた心地がしていなかったのだ。
「大丈夫ですか、エステル様」クシナーダが、カナンの集まりの中にやって来て声をかけた。
「ああ、なんとか――」エステルはモルデの持ってきた水を飲み、荒い息を整えて言った。
「……あれはいったい、何なんだ」カイが呆然と、魂が抜けたように言った。「あ……頭が八つもある化け物のような大蛇だった」
 姿を思い出すだけで、彼は震えていた。
「ヨモツヒサメがモノとなった怪物です。いわば、ヤマタノオロチ……」
「ヤマタノオロチ……」
「ヨモツヒサメはヨミの世界に存在する、人の澱が凝り固まったものです。本来、それはモノではなく、精神的存在なのです。意識、情報――そんなふうに言ってもよいでしょう。ですが、そうした意識の力も、ある限度を超えてしまうと、モノと化すのです。あれはあの戦場に満ちていた欲望や憎しみ、絶望や悲しみを集め、人の悪しきものがそのまま形となった姿です」
「人の欲望や憎しみ……」エステルは苦々しい表情だった。
 火が熾された。身体を休め、暖を取るために、数カ所で焚火が燃やされた。ワの民が、巫女たちが、カナンの民たちが、そしてカガチらも――。
 カーラだけがその場にいなかったのだが、彼もやがて姿を見せた。
「カーラ、どこへ行っていたの」アナトがほっとしたように尋ねた。
「近くの里へ食料を分けてもらいに行っておりました。わずかですが――」
 彼は背負っていた籠を下ろした。これには誰もが喜んだ。食事が作られ、それが分けられた。カガチとヨサミのところへも。
 持って行ったのはイタケルだった。「食えよ」と、ぶっきらぼうに告げる。しかし、二人はそれに手をつけなかった。それを見て、立ち去ろうとする彼を、カガチが呼び止めた。
「なぜ俺を助けた」
 イタケルはわずかに振り返った。
「アシナヅチや、これまでトリカミの巫女を殺し続けてきたのは俺だ。なぜ助けた」
「――うるせえな。たまたまだよ。たまたま。勢いっていうか」そう言い、イタケルはわざとらしく舌打ちした。「てめえのこと、ぶっ殺してやろうと思ってたのに……。助けちまったら……ああ、なんか、殺せなくなっちまった」
 イタケルは立ち去った。カガチは膝の間に頭を落とすような格好で、動かなかった。そのそばでヨサミは、じっと遠目に見つめている存在があった。
 エステルだった。
 あるとき、とうとう思い余ったようにヨサミは立ち上がった。エステルたちのそばへ行くと、座って食事をとっていたエステルを見下ろした。むろん彼女がやって来るのに、エステルのほうでも気づいていた。
「なぜ、あんたがこんなところにいるの」冷ややかという以上の鋭さが、ヨサミの声音と視線にはあった。
 エステルは腰を上げた。向き合うと、エステルのほうがやや目線が上になった。
 その顔にヨサミの平手が飛んだ。乾いた空気の中、それはひどく響いた。
 気色ばんだのはカナンの者たちだった。「よい!」と、エステルが叫ばなければ、彼らはヨサミを取り押さえたに違いなかった。だが、そんなことには一切お構いなしに、ヨサミは二度、三度とエステルを打ち据えた。四度目には拳になった。
 エステルは口を切り、鼻血を流した。
「エステル様!」
「自分たちが何をしたか思い出せ!」エステルはモルデたちにそう言い、ヨサミと対峙し続けた。
 ヨサミの行動はますますエスカレートし、歯止めが利かなくなっていった。眼が吊り上り、一撃一撃に憎しみを込め、喚きながらエステルを打った。
「おまえなんかッ! おまえなんか、わたしがッ! わたしが殺してやる!」
「ヨサミ……」
 アナトが、そしてキビの巫女たちが彼女の元へ行こうと動き出した。
 が、その前にヨサミの手は宙に挙げられたまま止まっていた。
 二人の間にスクナが割って入っていた。
「お願い……。もうやめて」スクナの眼が、ヨサミを見上げていた。「この人は、赤ちゃんがいるの。だから今は、やめてあげて」
 ヨサミは動揺したように眼をエステルの腹部へ、そして顔へ、また懇願するスクナのほうへ戻した。挙げた手が下せぬまま震えた。そのまま宙で指を揉みしだくように動かし、自分の目の前に持って行った。その手は血で汚れていた。
 ヨサミの脳裏に、トリカミの里で目の当たりにした惨劇がよみがえってきた。罪もない里人が殺されゆくさまが。
 みずからの手が、ヨサミに囁いた。お前の手も、すでにもっともっと血で汚れている。
 う……と呻きを漏らした。「こんな……こんなところで……卑怯者!! お前も戦え!」
 投げつけるようにエステルに叫ぶ。
「わたしと殺し合え! そうしたら、わたしがお前を殺してやるのに……卑怯者……」
 ヨサミは震えていた。泣きながら震えていた。膝を折り、両手を大地についた。しばらくそのままでいた彼女は、やがて堪えきえなくなったように唐突に叫んだ。泣きながら。子供のように。
「アナト! アナトォ!」
 キビの巫女たちが弾かれるように走り出した。そして、ヨサミの元へ殺到し、四方から抱きしめた。
「アナト……わたし……わたし……」
「いいのよ、もう。いいのよ、ヨサミ」

 キビの巫女たちは、また一つになった。


「あのような化け物を、どうにかできるか。その……〝黄泉返し〟とかいうもので」顔を腫らしたエステルが尋ねた。
 食事を終えた彼らは、焚火の一つの周囲を取り囲んだ。
「いえ、エステル様。もう〝黄泉返し〟は難しいかもしれません」と、アナトが言った。「巫女が八人必要なのですが、アカル様を欠いた今、数が足りません」
「クシナーダ様」シキが言った。「胆力のない巫女ではできない業だと申されておりましたこと、今ようやくわかりました。アカル様の時でさえ、わたしたちは心を乱してしまいました。そのためにアカル様を……ふがいない……」シキは自らを責めるように頭を振った。
「それはわたくしも同じでございます」クシナーダも沈痛な面持ちだった。そして焚火越しに、エステルのことを見つめた。
 それを横で見て、ナオヒが言った。「もしかすると数は足りておるのではないか」
「え?」巫女たちは驚いた。
「エステルに教えておったろう。天の御柱の舞を……」
「ナオヒ様にはお見通しですね」うっすらとクシナーダは微笑したが、それは悲しげにさえ見えた。
「あ……佐草で」アナトは思い当たったように言った。
「エステル様、舞をお願いできますか」クシナーダはエステルを見つめた。
「わたしのできることなら、なんでもすると約束した。やれというのなら、やる」
「で、でも、クシナーダ様。エステル様は巫女としては……」ナツソが疑念を呈した。
「はい。エステル様には巫女としての素養はまったくありません。そのような生き方もなさっていません」クシナーダははっきりと断じた。「ですが、今だけ、エステル様は巫女として働くことができるかもしれないのです」
「なぜ?」
 あっとイズミが声を上げた。「もしかして……腹のお子が?」
 クシナーダはうなずいた。「エステル様のお腹の子は、大変に強い〝力〟を持っています。男の子ですが、この子の〝力〟が母体を媒体にして巫女として働いてくれるように思うのです。あくまでも可能性ですが」
「クシナーダ様、〝黄泉返し〟で使うのは天の御柱の舞なのですか」アナトが尋ねた。「あのような初歩的な舞で、〝黄泉返し〟が行えるのでしょうか」
「もっとも基礎的なものにこそ大きな意味があるのです。皆さんはトリカミの里をご覧になったでしょう。トリカミの里はこのように――」クシナーダは小枝を拾い、地面に図を描いた。「東西南北の四方とその中間に磐座となる石を八つ配置し、里の中央には御柱を立てております。これがトリカミを聖域化する仕組みでもあるのですが、この〝黄泉返し〟では中央の柱にスサノヲがなります」
 クシナーダの視線を受け、スサノヲは頷いた。
「そしてわたくしたち巫女は、この場合、それぞれの磐座となります。この時の舞は、かならず天の御柱の舞でなければならないのです」
「わたしたちが磐座に……」ナツソが畏れ多いというように周囲を見まわした。
「大丈夫です。すでに皆さんはもう、アカル様の時に同じことをやりました。今度はそれを踊りで行うのです」
「それはつまり、あの化け物を中心に呼び込まねばならないということでもあるな」スサノヲが言った。
「そうなります」
「なにか方策は?」
「ヤマタノオロチと化していようとなんであろうと、あれの本性はヨモツヒサメです。ヨモツヒサメが好むものを見せれば引きつけることができるでしょう」
「憎しみや悲しみ……」
「恐怖?」と、スクナが言った。
「それ、いけるかもな」イタケルが乗ってきた。「あの化け物を見て怖がらないやつはいない。要は怖がって、あいつから逃げてくればいいんじゃねえか」
「危険な役回りだが」と、スサノヲが言った。
「なら、我らにやらせてほしい」モルデが言った。「うまくひきつけて見せる」
 他の者は顔を見合わせたが、承諾するしかなかった。
「エステル様、今夜のうちに天の御柱の舞を、他のカナンの方々にもお教えしてくださいますか」
 クシナーダの申し出に、エステルは戸惑った。
「あ、ああ。それはかまわないが、男たちにもか」
「踊り手は一人でも多いほうが良いのです。もともとそのためにお教えしたのです」
「わかった。モルデ、カイ――」
 エステルの促しを受け、二人の男は彼女と共にその場を離れた。カナンの民たちが集まっている焚火のほうへ戻っていく。
「あとは鳴り物ですが、ナツソ様にも踊っていただかなければなりません」
「それなら俺が――」と、オシヲが言った。「天の御柱の舞の調べなら、いつも吹いていたし、それにこの間作った歌だって、ずいぶん聞かされたから吹けるよ」
「ミツハもきっと喜びます」クシナーダが笑顔になった。
 ナツソからオシヲへ、ミツハの笛が戻された。
 それを見守りながら、「ニギヒ様」とクシナーダは呼びかけた。「皆様も天の御柱の舞を、アナト様たちから教わっておいて頂けますか」
「承知しました」
「このようなことに巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません」
「何をおっしゃいますか。ご案じなさいませんよう」
「こやつを巻き込んだのはわしじゃよ」ナオヒは、ひゃひゃと笑った。
 各自の為すべきことが分担され、自然と散開するような空気ができた。ヨサミはその場にずっと、アナトに肩を抱かれるようにして居合わせていた。一言も発さず。
 だが、その場を離れかけ、彼女はクシナーダの元へ戻ってきた。そしてその前で手をついた。
「クシナーダ様、これまでのこと、お詫び申し上げます。とても許していただけるようなことではございませんが、本当に申し訳ありませんでした」頭を下げ、そして続けざまに言った。「ですが、クシナーダ様。わたしは自信がございません。〝黄泉返し〟なる業を、わたしなどがとうてい担えるとは思えません。わたしはもう巫女としての力も資格も、何もかも投げ捨ててしまった者です」
「エステル様と同じようなことをおっしゃられるのですね」
「え?」ヨサミは顔を上げた。
「でも、エステル様はあなたとは違います。自分のできることならなんでもする。あの方はそうおっしゃいましたよ。あの方にはお覚悟があります」
 ヨサミはカナンの民のほうを見た。
「人は過ちを犯します。それは、わたくしも同じです。でも、道を一度踏み外したからと言って、道に戻れぬわけではありません」クシナーダは優しく告げた。「可能性を見せてください」
「ごめんなさい、クシナーダ様。わたしは……」表情を歪めながらヨサミは言った。「あの者たちを、どうしても許すことができないのです。あの者たちと心を一つにすることなど、絶対にできません。そうすべきだとわかっていても、どうしてもできないのです」
 泣きながらヨサミは顔を伏せた。
「考えるのをおやめなさい。頭であれこれ考えず、ただわたしたちは自分のできることを一人一人為せばよいのです」
「できること……」
「許せないのなら、それでも良いのです。でも今のわたくしたちにできるのは、ただ歌い、踊ることだけです。それしかないではないですか。違いますか」
「はい……」
「だから、何も考えず、今はただ為すべきことを為しましょう」
「はい……」
 涙をこぼしながら、ヨサミはアナトに支えられ、その場を離れた。
 そのとき、ヨサミはカナンの者たちに天の御柱の舞の振りを教えているエステルを見た。
 唯一の神を信奉するカナンの者にとって、それは邪教の業に違いないというのに――。
「アナト……」
「なあに、ヨサミ」
「力及ばなかったらごめんね。でも、わたし、やる」
 肩を抱くアナトの手が、強く抱きしめてきた。

 彼女らを見送ってから、スサノヲはクシナーダのそばに来て腰を下ろした。その様子を見て、イタケルやオシヲ、スクナもその場を離れた。ぼーっとしていたが、ナオヒもあらためて気づいたように、その場をそそくさと離れて行った。にたにた笑いながら。
 二人だけが残った。
「俺の役目は、カガチの時と同じと考えてよいか。ヤマタノオロチの動きを封じる……」
「はい……」
「承知した」
 沈黙が流れ、焚火の爆ぜる音だけが響いた。いつかと同じように。
 トリカミの里に初めて来たときと同じように、スサノヲはクシナーダの横顔を見つめていた。と、ふいにクシナーダが両手の中に自分の顔を隠した。
「どうした?」
 クシナーダの背が震えていた。
「どうした、クシナーダ」
「怖いのです……」両手の指が開かれたが、その指も震えていた。
 スサノヲは彼女の震える手をつかんだ。
「お願いです、スサノヲ……」見返すクシナーダの双眸は凍り付くようだった。「絶対に死なないでください。わたくしはあなたに会うためだけに生きてきました。姉や両親や、多くの里の巫女たちを見送り、今もイスズ様やアカル様や、アシナヅチ様やミツハも……わたくしはいつもいつも見送り続けてきました」
 クシナーダは本当に、心の底から恐怖していた。その怖れが、瞳の中にありありと見えた。
「愛する者を見送りながら、わたくしはあなたに出会い、共に生きることだけを願って生きてきました。ずるい女です。わたくしには、あなたしかいないのです。お願い……」
 クシナーダは彼の衣を両手でつかみ、必死に懇願してきた。
「死なないで……。これ以上、わたくしを独りにしないでください」
「わかった。約束する」
「本当ですか……」
「ああ」
「あの瘴気を浴びたら、あなたでさえ無事では済みません。必ず避けてください」
「ああ」
「いかにその剣が強くても侮らないでください。剣ではヨモツヒサメを完全に浄化することはできません」
「ああ、わかっている」
「それから……それから……」
 クシナーダはそれ以上、喋れなくなった。スサノヲがその口を塞いでしまったからだった。二人の姿は焚火の明かりの中で、一つの影となって揺らめいていた。

    4

 夜が明けても、空は明るくはならなかった。まだ日蝕がそのままの状態にとどめ置かれているかのようだった。
 曇天の下、あたりはまるで白夜か薄暮の時のような情景であり、それは決してただの曇り空のせいではなかった。
 誰もが異常を感じ取っていた。つい昨日まで迎えていた当たり前の日常ではなく、何か世界全体の空気が大きく切り替わってしまったと感じさせるものだった。
 このままであれば、この世は滅ぶ……。それは突き刺さってくるような嫌な予感だった。

 クシナーダは斐伊川の近くにある小さな平野を、その場所にと定めた。そこには空から見れば豆粒のような杜(もり)がぽつんとあり、そこをスサノヲのあるべき御柱とした。そしてエステルを含む巫女たちを、その周囲に十分な距離を取って、八方に配置した。その周囲にはニギヒの配下たちを共に守りとして置いたが、カガチの時と異なり、人の護衛などまったく意味をなさぬは明らかだった。
 風もなく、静かな朝だった。
 まるで生物がこの世からいなくなってしまったのではないかと思えるほど。
 カガチはその静けさを、近くの小屋の中で感じていた。臥所に横たわる彼は、まだろくに身体を動かせない状態だった。全身の組織や細胞が作り変えられたというだけではない。彼の裡から抜け出て行った悪霊の如き力は、彼の生命力そのものも根こそぎ奪い取って行ったかのようだった。
 そばにヨサミがいた。彼女はずっと付き添っていた。一睡もすることなく。
 小屋の戸板が叩かれた。
「ヨサミ、そろそろよ」
 アナトの声だった。
 ヨサミは音もなく立ち上がると、何も言わず、ただカガチの胸の上に置かれた手に自分の手を重ねた。そして小屋を出て行った。
 すべてがなくなってしまった――。
 ヨサミのいなくなった空間で、カガチはそれを感じていた。根っこにあったものがなくなってしまい、自分が空っぽになってしまっている。かつての怨讐も、今や彼を駆り立てるものにはなり得なかった。その記憶はあるのに、何か実感を伴わず、乾ききっているのだ。
 すべてがなくなったのは、あいつも同じだ――と、カガチは想った。ヨサミもまたかつてのカヤの巫女であった時、そしてその後、カナンへの復讐を心に誓っていた時の、そのすべてを失っている。
 いや、そうではない。ヨサミにはまだ、心を通わせる存在がいた。
 カガチにはもはやそれさえなかった。
 生きる価値もない。
 そう思えたが、では死ねるのかと言えば、その気力さえ湧かないのだ。
 やがて鳴動が聞こえた。キャーンという、あのおぞましい耳障りな叫びが聞こえ、化け物があたりの山々を揺るがせて突き進んでいるのがわかった。
 このまま、ここですべてが滅びれば楽かもしれない。
 カガチはそう考え、動かない身体を起こした。
 戸口まで出るのに、異様な時間がかかった。こじ開けた隙間に彼が見たのは、ヤマタノオロチの巨体が杜に向かって突き進んでいく姿だった。

「頼むぜ」イタケルはそう言って、朱の領布を差し出した。
 スサノヲはそれを受け取り、首に回すのではなく、頭部に縛った。
「おお、それもいいじゃねえか」
「早く避難しろ」
「スサノヲ――」
「なんだ」
「おめえはすげー奴だ。いや、おめえとクシナーダがすげえよ」
 スサノヲは首をひねった。
「俺はな、アワジから頼まれてるんだ。クシナーダを泣かすな。もし泣かしたら、ヨミの国まで行って、ぶちのめしてやるからな」
「イタケル……」
「覚えとけよ」
 イタケルは駆け出し、杜から離れた。その杜に向かって、モルデたちが走って来るのが見えた。そして、その背後には山を越えてきたヤマタノオロチが迫って来ていた。
 あたりに瘴気をまき散らし、それが通過した周囲は、木々がみるみる枯れ、緑色の山は灰色か茶色に変わっていた。
 モルデたちが駆け抜けて行った。
「スサノヲ様――!」
「お頼みします――!」
 彼らは口々に、最後の望みを託して行った。
 スサノヲが背後にしている杜を呑み込むほど、ヤマタノオロチは巨大だった。
 キャ―――――ン!
 焼けただれたような胴体を見せ、八つのオロチの鎌首がもたげられた。その瞬時にスサノヲは飛び出した。フツノミタマの剣を、そのただれた胴体に突き刺し、裂く。
 キャ―――――ン!
 頭が割れるような叫びだった。オロチの首が次々にスサノヲを狙って食らいつこうと迫ってくる。

 笛が鳴った。
 高らかな笛のヒビキがあたりを貫き、それぞれの場所で身を隠していた巫女たちは姿を現した。皆、その胸に勾玉を下げ。
 先頭を切って、クシナーダの歌声が響いた。
 どんな絶望にうちひしがれても
 アナトが追いかけて歌う。
 どんなに濃い闇がたちふさがっても
 二人が声を合わせた。
 心の奥底 消えない火がある

 ヨサミが
 たとえひと時 憎しみ合っても
 エステルが
 たとえひと時 わかり得ずとも
 二人が声を合わせた。
 いつもどこかに信じたい想いある

 ヨサミはクシナーダに言われるまま、もはや心を空っぽにして動いていた。エステルとヒビキを合わせた瞬間だった。ヨサミの心の奥底で、重く閉ざされていたものが開き、動いた。
 そして彼女たちに続いて、すべての巫女たちが、そしてそれを取り巻く人々がヒビキを乗せてきた。
 そうすることで、さらにその閉ざされていたものは大きく開きはじめた。

 さあ、心の岩戸開いて
 呼び出そう
 本当の自分
 本当の気持ち

 さあ、心の岩戸開いて
 手を伸ばそう
 世界に向かって
 愛する人に


 その歌声のヒビキに包まれ、笛を吹くオシヲは、ミツハがかつてなく身近に存在するのを感じた。生きてそばにいたときよりも、ずっとずっと彼女はオシヲと一つだった。明るく無邪気な彼女の魂が、光となってすぐそこに在るのを感じた。彼女は今、オシヲに重なり合うようにして笛を吹いている。
 ――オシヲ、わたし、嬉しい。オシヲがわたしの大好きなオシヲでいてくれて。
 声が聞こえた。滂沱と涙が溢れ、オシヲは何も見えなくなりながら、笛を奏で続けた。

 さあ、心の岩戸開いて
 呼び出そう
 本当の自分
 本当の気持ち

 さあ、心の岩戸開いて
 手を伸ばそう
 世界に向かって
 愛する人に

 手を取り合って


 歌が終わるのと共に、わーっという喚声が湧きおこり、周囲に広がった。カーラが先導し、大勢の民が杜の周囲に押し寄せていた。
「クシナーダ様!」
「スサノヲ様!」
 口々に叫ぶ彼らは、トリカミの里人たちだった。いや、そればかりではなかった。里人が手厚く面倒を見た、オロチ軍の傷病者たちも、動ける者は一緒になってそこへ来ていた。
 小屋を出たカガチは、その人々の異様な光景を眺めていた。彼らは怒涛のような流れとなって、みるみる杜の周囲を取り巻いた。
「わたしたちも!」
「いつものやつですよね!」
「一緒に踊りますよ!」
 彼らはヤマタノオロチという怪物を目の当たりにし、もちろん恐怖を覚えたようだった。だが、その逡巡した彼らの心を鼓舞したのは、巫女たちの歌声とスサノヲだった。怪物に近いところで怖じることもなく歌を捧げる彼女たちの姿。大蛇の化け物と戦い続けるスサノヲ。
 人々は心を動かされた。

 ア――――。
 クシナーダが浄化のヒビキを送り始めた。
 ア――――。
 少しずつ音階を変え、アナトが、ヨサミが、シキが、ナツソが、イズミが、ナオヒが、そしてエステルがヒビキを重ね合わせ、織り合せて行った。
 彼女たちの胸の勾玉が燦然と輝きを放ち、それぞれの場所から小山を中心とする一帯をドーム型に包み込んだ。
 ヤマタノオロチは巫女たちを認識した。そして猛然と、まずクシナーダへ襲い掛かろうとした。スサノヲはそれを察知して回り込み、クシナーダへ向かって伸びて行く大蛇の首に光の太刀を振り下ろした。
 首は切断された。
 キャ――――ン!!
 巫女たちの調和のヒビキがかき乱されるほど荒々しくおぞましい叫びを上げ、のたうちまわる。斬りおとされた首から、真っ黒な霧のようなものが立ち昇った。
 もう一つの大蛇の首が大口を開け、瘴気を吐き出した。スサノヲはそれが直接巫女に襲い掛かるのをふせぐため、フツノミタマの剣に浄化の〝気〟を集め、それを送り出してぶつけることで祓った。
 怒り狂った大蛇は、スサノヲを呑み込もうと向かってくる。
 上段から渾身の〝気〟を込めて振り下ろしたその太刀が、オロチの頭を正面から断ち割って、その付け根まで引き裂いた。
 またあの金属的な叫びを上げ、オロチが苦悶する。
「これで二つ」
 スサノヲはさらに攻撃を加えようとして、胸に異様な苦しさを感じた。喉がつまり、咳き込む。血の塊が吐き出された。
 祓いつづけてはいたが、ヤマタノオロチの瘴気はじわじわと彼の肉体そのものを蝕んでいたのだ。
 左右から大蛇の首が襲い掛かり、スサノヲは跳躍し、それを避けようとした。が、すでに思うほどの力もスピードもなく、彼の右太腿に一体の牙が食い込んだ。
「!」
 スサノヲは叫んだ。痛いとか熱いとかいう以上の、そのまま脚がもげて落ちるような心地がした。剣を大蛇の頭に突き立てる。
 フツノミタマの浄化の〝力〟が、そのオロチの頭部を焼き、死滅させた。
 しかし、残る大蛇の牙が肩に、そして腕に噛みついてくる。
 スサノヲは絶叫した。全身が痺れ、意識が真っ暗になっていく。大蛇の牙には人を簡単に殺傷する禍々しい毒のようなものがあった。
 ア――――。
 巫女たちが捧げる調和のヒビキ。それが遠のく彼の意識を引き戻した。
 そして全身に回る毒を中和した。彼は吠えた。まるで自身が竜巻と化したようだった。荒々しく舞いながら、彼はまとわりつく大蛇の首をずたずたに切り裂いた。

    5

 浄化のヒビキを送ったのち、巫女たちは両手を上方へ捧げるような姿勢で止まっていた。
 オシヲの笛からあらたな調べが送り出されてくる。クシナーダは閉じていた目を開いた。
 ――さあ、皆さん、参りましょう。
 クシナーダの思念が広がった。そして彼女は祈りのような、祝詞のような歌を口ずさんだ。そして巫女たちはいっせいにゆるやかな舞を踊り始めた。

 風の神 山の神 川の神 火の神
 海の神 星の神 ヤオヨロズ すべてと
 太陽と月の下

 尽きることない暖かな光
 すべてを潤す恵みの雨
 この天地に生まれた命よ
 ヤオヨロズ 集い来て さきさいたまえ


 彼女たちの舞に合わせ、取り囲む人々が同じ舞を演じはじめていた。それは中央で演じられている、荒々しく激しい死闘とはまったく位相を逆にしたものだった。
 だが、その周囲が作り出す穏やかで調和的なヒビキが、スサノヲを支え、そしてヤマタノオロチの禍々しさを封じ込めようとしていた。
 それは誰にでもできる簡単な舞だった。しかし、それはその場に大きな変化が生み出さしめていた。
 その変化は意外にも、エステルを真っ先に打った。
 クシナーダから伝授された舞は、今や無意識にさえ踊れるほどだった。もともと体を動かすのが得意なエステルには、むしろ静かすぎる舞。
 その静かな動きを同じくする人。人。人。
 その所作がシンクロをすることで、意識がいつの間にかシンクロしていく。通じて行く。
 そして人とつながれることで、いきなりエステルの意識と視野が広がった。見えてくる風景。そしていつの時代かの体験。
 はたと彼女は悟っていた。
 わたしはこれを知っている――。
 みなと共有して舞う、この体験を彼女は知っていた。
 いつの時代にか、エステルはこの舞をこの地で舞ったことがあると、明確に思い出したのだ。その時の情景がありありと見える。今よりもさらに古代のどこか……エステルはその時代にこの地に生まれ、そして当たり前のように舞っていた。多くの仲間がいた。その人々はもちろんエステルにとっては見知らぬ人たちばかりである。そのはずなのだが、しかし、皆、知っている者ばかりだった。モルデ、カイ、シモン、ヤイルもまたその中にはいた。なぜかそうだとわかるのである。
 ――そなたらは還るさだめ……。
 メトシェラの言葉が脳裏をよぎり、今本当の意味で胸に落ちてきた。
 魂は生まれ変わるのだ!
 それはエステルのそれまでの観念を粉々に打ち砕くほど、強烈な認識だった。
 エステルはカナンの民としての存在だけではない。この地上に幾多の人生をすでに刻み、まるで違った宗教や風習の暮らしを、数え切れぬほど積み重ねてきていた。カナンのエステルは、その中のたったひと粒に過ぎなかった。
 なんということだ。なんという……。
 その真実の前には、カナンが神に選ばれた唯一の民だとか、そのような思い込みは、まったく無意味だった。それは失望どころか、エステルに笑いの衝動を起こさせた。
 ハッ……なんだ、これは。なんで、こんなことがわかる。いや、なんでわからなかったのか。わたしはなんという……。これでいいのではないか! 皆、あるがままで! ハッ……アハ……アハハハハハ!
 エステルは踊りながら、心の中で笑っていた。

 ヨサミは、まったく違った光を感じていた。
 舞の中に立ち現われてきたのは、亡くなった母だった。巫女としてカヤを導いてきた母。そしてこの舞を幼かったヨサミに教えてくれた人だった。彼女は今、ヨサミのそばで一緒に舞っていた。そしてさらに、その母の隣に重なり合って、父の光があった。
 ――ヨサミ。
 声がする。
「お父様……お母様……」
 ――よく頑張ったね。
 二人から暖かいいたわりが感じられた。
「ごめんなさい、お父様、お母様」
 いいんだよ、と彼らは伝えてきた。それどころか、今までのヨサミのすべてを許していた。そしてこの場にエステルがいて、カナンの民がいることを、彼らが喜んでいた。
「これでいいの……?」
 これで良い――そう伝える二人の背後から、さらに眩い光が現れてきた。
 アカル様だ、とヨサミは感じた。
 ――あなたに託します。ヒボコのこと……カガチのこと、お願いいたします。わたしの〝力〟をあなたにお預けいたします。
 アカル様! とヨサミは心の中で呼びかけた。わたしはあなたに嫉妬していました。あなたはあまりにも眩しかった。それにわかっていました。あなたがなにゆえにか、カガチを愛していることを。
 ――あなたもカガチを素直に愛してください。
 アカル様!

 その同じ光は、カガチにも見えていた。
 彼は大勢が輪となって舞うその現場を見下ろす丘にいた。樹木に寄りかかって、かろうじて身体を支え、その場に膨れ上がる光とヒビキを感じていた。それはますます強くなり、彼の視野を覆い尽くしてくるように思えた。
 ――カガチ。
 二つの光が並んでいた。そして、その中に良く似た面差しの女が二人。
 アカルと、そしてもう一人は彼の実母であった。
 その二つの光に彼は抱きしめられた。
 彼はその場に崩れ落ちた。幸福感という酒に酔い――。


「あと一つ……」
 スサノヲの前に大蛇の首が一つだけ対峙していた。その恐ろしい眼の中に、スサノヲはあのヨモツヒサメの存在を感じていた。


 赤は赤 青は青 白は白 黒は黒
 空は空 海は海 風は風 人は人
 太陽と月の下

 愛を形に咲き誇る花
 愛を届けて飛び交う虫
 この天地に回る命よ
 ヤオヨロズ 結び合い イワイたまえ


 クシナーダの歌声は祈りとなり、空に澄み渡るように響いた。
 ヒビキは踊りと一体となり、その場を満たした。
 その中でクシナーダは視ていた。

 はるかな太古、始源の時よりこの地球という星に生み出された生命の数々。
 人類という種。
 その膨大な歴史と、人が積み上げてきた体験。
 文明の盛衰。
 時のリセット。
 その中でつながる、命という螺旋。
 回る。
 回る。
 命が回る。
 そしてクシナーダも回る。
 巫女たちも回る。
 民たちも回る。
 彼らが一人一人体験し、接している無数の情報。それがクシナーダの中に流れ込んできた。そこから、クシナーダはどこへでも、いつの時でも、今すぐに飛び渡っていくことができた。いつの時代も、どの世界も、今ここで身体と心を通じて共有することができる。
 一体となることができる。
 人は皆、地球の子――。
 命はつながり。
 命は回る。
 それは喜びの現れ。


 スサノヲは裂帛の気を放った。
 急迫する大蛇の首が粉々になり、霧散した。
 そこには濃厚な闇の気配が残された。
 あのヨモツヒサメの元の意識だけが漂っていた。そこへスサノヲはフツノミタマの剣を突き入れた。以前とは異なり、浄化の力を帯びた剣は、ヨモツヒサメの芯を完全に捉えた。
 剣に貫かれ、身動きも霧散もできず、釘づけにされたヨモツヒサメは苦悶した。が、逃げられぬと悟ると、その闇の顔で笑った。
 ――オマエハ人柱トナル。黄泉ヘ連レテ行ク。
 闇の人型は、愛おしげにスサノヲの顔を撫でた。
「上等だ。貴様らを道連れにできるのなら」


 ――クシナーダ。
 懐かしい声が聞こえた。
「お姉様……」
 カガチに殺められ、ヨミへ旅立ったアワジだった。そして姉巫女に重なり合うようにして、これまでクシナーダを守ってきた他の年上の巫女たちの意識が現れた。
 彼女たちは天女さながらに宙を舞い、暖かい賛美の想いを寄せてきた。よくやったね、頑張ったね、と。
 ――良い子、良い子。おまえは良い子だ。
 さらに大きなヒビキが愛となってクシナーダに降りてきた。
 ウズメ様だ、と感じた。過去、どのような神事や、どのような舞の時にも感じたことのないような、全面的な一体感が生じた。愛と喜びが、クシナーダの身体の隅々、指先やすべての毛先にまで溢れるほどに広がり、その波動は彼女を通じて波及し、舞い踊る巫女たちすべてに伝播した。そして彼女らは、クシナーダが視ているものの片鱗を共有した。
 そしてまた声が聞こえた。
 ――時が至ったぞ! 皆、目覚められよ!
 天より大きなヒビキだった。サルタヒコ様の声だと感じるクシナーダの認識は、そのまま他の巫女たちのものとなった。

 空が震えた。山野も震えた。

 直後、見渡す限りの天地(あめつち)から、荘厳な光が湧き立ち、ありとあらゆる神々と精霊がはじけ飛ぶように生まれ出でるのを巫女たちは感じた。
 それらが光の渦となって、まるで星雲のように回った。ぐるぐるぐるぐる。
 大きな力がその中心に注ぎ込まれていった。

 この天地を満たす命よ
 ヤオヨロズ 共に在り 歌いたまえ

 ヤオヨロズ ヒビキあい わらいたまえ


 クシナーダの歌声の終わりと共に、静寂が訪れた。
 巫女たちは向き合い、中央の上空へ両手を捧げていた。そして取り巻く大勢の人々も。

 轟いた。
 まるで巨人が腹の底から発する空が割れるほどの哄笑が誰の耳にも聞こえた。
 わっはっはという、ものすごい轟きの笑い声に続き、いっせいに無数の笑い声が湧きあがった。子供の笑い声。女の笑い声。老人の笑い声。赤ん坊の笑い声。
 それは長く続いた。
 そして鎮まった。

「天の岩戸が……」アナトが。
「開く……」シキが。

 見上げる上空の闇が切れた。
 そして扉が開かれるように、そこから眩い光が差しこんできた。

「日が戻った……」イタケルが。
 その光は地上を照らしたかと思うや、まるで生き物のようにうねった。光り輝く竜のようだった。それは躍動し、クシナーダの捧げた手へと集まった。
 眩しい光の塊は、彼女の手の中で鏡となった。
 それを掲げると、天を割った光が鏡を通じ、その場をまるで焼き尽くすように照らした。スサノヲとヨモツヒサメが対峙する、その場所を。
 まだ浄化されぬままその場にとどまっていたヨモツヒサメが悲鳴を上げた。
 それはこの世の中に存在する、ありとあらゆる怨念的な喚き声を集めた断末魔の悲鳴だった。
 彼らの足元に、黄泉の口が開いた。真っ黒な淵のようなものの上にスサノヲは背を見せて立っていた。ヨモツヒサメを剣で貫いたまま。
 
 その時、エステルはお腹に異常を感じた。痛みと共に、生暖かいものが腿を伝うのを感じた。あっと叫び、エステルは両手でお腹を押さえた。だが、直感的に知らされるものがあった。
 今の彼女には視えていた。
 光の珠が彼女の腹部を抜け出てきた。その光の中に、小さな胎児が勾玉のように見えた。
「あ――。待って!」
 光の珠は彼女を慰めるように、目の前でくるくると回った。
「待って……わたしの……」
 すうっと離れていく光の珠。ここまで彼女を支え、役目を終えて去っていくのだとわかった。それは加速して、クシナーダが照らす場所へ向かい、そしてスサノヲの足元に開いたヨミへ通じる淵へと飛び込んで行った。
 するとそれに引っ張られるように、ヨモツヒサメがその淵へと吸い込まれていった。

 闇の淵は消えた。
 そして空はみるみる雲が割れ、明るい日差しに満たされた。

「やった……」呆然とイタケルが呟いた。
「やった……」スクナも、そしてオシヲも似たように呟いた。
 そのざわめきは群衆の中へ広がって行った。
「やった!」叫びが上がる。歓喜の叫びが。
 歓喜が広がっていく。小躍りして喜ぶ者。抱き合う者。

 ヨサミはアナトの元へと駆けていた。一度、途中で転んだ。それでもすぐに起き上がり、向こうからやって来るアナトとぶつかるように抱き合った。
 二人とも涙でぐしゃぐしゃだった。
 そこへシキとナツソ、イズミも飛びついて行く。

「エステル様……?」モルデは彼女のそばにしゃがみこんだ。
 まだ自らのお腹を抱いたままエステルは泣いていた。悲しいのと、寂しいのと、それでもこの歓喜の中での共有と……そのすべての涙だった。

「ナオヒ様、やりましたな」
 ニギヒがかける言葉が耳に届かぬように、ナオヒは視線を杜に釘付けにしていた。杜はすでにヤマタノオロチの瘴気で、すべての木々が立ち枯れていた。彼女の場所からは、その前に立つスサノヲの横顔が見えていた。
「ニギヒよ、あそこへ連れて行っておくれ」

 クシナーダもまた全力で駆けていた。
 杜の前で背を向けているスサノヲの元へ。
 人々が集まってくる。彼の元へ。
 クシナーダはその先頭を切って彼の元へたどり着いた。息を切らしながら、呼びかける。
「スサノヲ――」
 その瞬間だった。
 剣を持っていたスサノヲの腕が、肩の付け根からもぎ取れた。剣は音を立てて地面に落ちた。
 キャア、とクシナーダは、それまで誰にも聞かせたことのないような悲鳴を上げた。
 次の瞬間。

 ざ、という音を立てて、スサノヲの身体は崩れ落ちた。

 人々は信じられぬというようにその場に凍りつき、眼を見張った。
 そこには白い砂のような山が残され、その砂の中に彼が身に付けていた衣と、そしてクシナーダの朱の領布が半ば埋もれて残されていた。
 風が吹いた。
 その風は白い砂を動かした。
「スサノヲ……」
 ふらふらとクシナーダはおぼつかない足取りで歩いて行った。そしてその砂の中に手を入れた。
「スサノヲ……」
 その中をかきまわすようにする。
 巫女たちが、ナオヒが、そして遅れてエステルたちもその場にやって来た。
「塩だ……」白い砂を指先で確かめ、イタケルが洩らした。
 スサノヲの肉体は塩と化していた――。
「みずから浄めの塩となったか……」ナオヒが呟いた。
 クシナーダは、朱の領布を握りしめ立ち上がった。
「そんなはずない……そんなはず……」思いつめたように繰り返した。そして彼女はどこかあらぬ方を仰ぎ、視線を送った。
「スサノヲ……?」
 また違う方へ歩き、呼びかけた。
「スサノヲ……」
 その姿はあまりにも痛々しく、眼を背けずにはおれなかった。

 スサノヲ――!!

クシナーダの叫びは、蒼穹に吸い込まれていった。





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