☆目次
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プロローグ~放浪の神~

第1章 ワの国

第2章 巫女たち

第3章 黄泉の扉

第4章 ヨモツヒサメ

第5章 為すべきこと

第6章 椿

第7章 一つに

第8章 浄め

エピローグ~国の乙女の花~



☆関連歴史年表
BC
721年 北イスラエル王国サマリア、アッシリアに滅ぼされる
586年 南ユダ王国、新バビロニアに滅ぼされる。預言者ダニエルはバビロニアのネブカドネザル王のもとへ連れ去られる。
AD
36年 アシナヅチ生まれる。光武帝が中国を統一。
66年  中東で第1次ユダヤ戦争。
74年 マサダ要塞の戦い(第2次ユダヤ戦争)。集団自決により戦争は完全に終結。これにより絶望したエステルらの祖先が故地を離れる。
87年 カガチ、生まれる。
89年 アカル、イスズ、生まれる。
95年 エステル誕生(カナンの民は放浪中)。
103年 クシナーダ、誕生。12月22日17時41分。
103年 カガチ、日本に渡来。この時16才。アカル14才。
105年 カガチ、若狭から北陸を支配。
107年 カガチ、鳥取を手に入れる。
109年 カガチ、キビに勢力を伸ばす。
112年 トリカミにカガチの手が伸びる。クシナーダの姉、アワジ連れ去られ、殺される。これ以降、一年に一人ずつ、トリカミの巫女が犠牲になる。
117年 スサの地にスサノヲ現れる。エステルと出会う。
118年 七人目の巫女、カガチに殺される。

そして119年、エステルらカナンの民とスサノヲはワの国に辿り着きます。
この時点で、カガチ32才、クシナーダ15才、アシナヅチ83才、エステル24才。
クシナーダは物語の中で16才になります。

119年
7月 カナンの先発隊、モルデらナカの国に上陸。
9月 エステル、渡来。      
10月22日(新月) スサノヲ、斐伊川のほとりにスクナと共に漂着。
11月4日 キビの国の中のカヤ国、カナンの焼き討ちで落城。
11月5日(満月) カガチ、フツノミタマの剣を手にする。
11月20日(新月)
11月27日 カヤ、カガチに奪還される。
12月9日 ナオヒ、トリカミにやってくる。
12月19日(新月) カガチ、全軍を持ってイズモのカナンへ侵攻。スサノヲ黄泉へ。
12月20日 トリカミ、戦場に。
12月22日 冬至。クシナーダ16才になる。

DSC_0970.jpg
この画像は、布都御魂剣(フツノミタマの剣)のレプリカの木刀です。

フツノミタマの剣は、スサノヲが八岐大蛇を斬った剣として、現在の岡山県赤磐市石上にある石上布都魂神社に、どういう経緯か不明ですが、御神体として伝えられていました。

この剣は後に一度大きな働きをしたのち、奈良県の石上神宮に納められます。

石上神宮が発掘調査されたとき、この剣の現物が出てきたそうです(もう錆びていましたが)。

それを正確に再現した鉄のレプリカがふた振り作られたそうです。

この木刀は、そのレプリカをさらに模したもので、先の赤磐郡石上の神社で撮影させてもらったものです。

見て頂いたらお分かり頂けると思うのですが、直刀ではありません。

後の日本刀のような形状で、しかもまるで「るろうに剣心」の逆刃刀のように、そりの内側のほうが先鋭なのです。

まったく不思議なことですが、このような刀が古代に実在していたことはたしかなようです。


これがいかにしてキビに伝えられることになったのかも、物語の中では語られます。

2015_12_19



    1

 自分一人で逃げるのなら、たやすいことだった。が、とくに身重のエステルは折からの豪雪もあり、行動が鈍かった。まる一昼夜、いくつかの山野を越え、彼女らの逃亡を助けるため、常にスサノヲはしんがりで敵を撃退し続けなければならなかった。
 たった五人の逃亡者を討つために、ヤイルは百を超える追手を波状的に放ったようだった。かつては主君と仰いだ人物を殺害せしめるための強い決意がそこには現れていた。
 成行き的な進路でしかなかったが、エステルたちは東へ逃げた。そしてスサノヲはほとんど休む間もなく、彼女たちを守るために闘い続けた。むろん降りしきる雪と寒さが体力を奪ったということもあっただろうが、それ以上にヨモツヒサメから与えられたダメージが、じわじわと傷口を広げるように彼の力を奪って行った。
 相手をことごとく斬り捨ててしまうのなら、いっそそのほうが楽だったろう。あるいはそうしていれば、圧倒的なスサノヲの力を思い知り、ヤイルも追撃を思いとどまった可能性もあったのかもしれない。
 が――。
 クシナーダは喜ぶまい、と思った。その考えは、彼自身、奇異なものだった。身を守ること以外、スサノヲも好んで人を斬ったことなどなかった。地上に降りた瞬間から、自分と常人との間にはあまりにも不公平な力の差があることを知った。そのため、あまりにも脆い命である人を斬るつもりにもなれなかった。だから、大陸を踏破してくるときも、害をなす者でさえ特別な理由がない限り適当にあしらってきた。
 今殺さないのは、その時の理由とは根本的に違っていた。
 クシナーダの顔が浮かび、その意識の中での彼女が殺すことを善しとしないからだった。そう言われたわけではない。ただ、それが伝わってきて、わかるのだ。
 相手を動けなくさせるだけの加減をするのは、ただ斬るよりよほど神経を使う作業だった。自分でも馬鹿ばかしいことをしていると思いながら、それでもスサノヲは心の中にいる彼女の反応に従っていた。
 そうすることが、なぜか心地よかった。
 と同時に、そうすることで彼は次第に窮地に追い詰められていた。おそらくこの山を越え、そして南西へ進路を取ればトリカミへたどり着けるだろうという、その峠を越えたあたりでとてつもない脱力感に見舞われ始めた。
 ――やせ我慢もここが限界か。
 山の斜面を駆け下り、さらに追ってくるカナン兵を引きつけながら、スサノヲが思ったときだった。
「スサノヲ!」
 その声が降りしきりる雪を、ふっと断ち割ったように思えた。その隙間にクシナーダの顔と、彼女の赤い衣が見えた。だが、次の瞬間、彼女の身体が倒れ、山の斜面を滑り落ちるところで、視野が吹雪に塗りつぶされた。
「クシナーダ――!」
 彼女のほうを見ながら、スサノヲはカナン兵が打ち下ろしていく剣と槍を、次々に弾き返した。
「邪魔をするな!」
 瞬間的に湧いた怒りが彼に力を回復させた。彼の降った剣が、見えない刃となって、山の斜面を這い上がった。その流れに沿って、十数本の樹木が揺らぎ、降り積もった雪を降らせ、しばし視野は完全に真っ白になった。
 その隙を見て、スサノヲはクシナーダのいたほうへ走った。いまだ生々しい滑落の後が残っていた。辿って行けば、斜面に突き出した岩の上を通り抜け、その先は真っ白な宙だった……。
 岩のすぐそばに小ぶりな滝があり、流れ落ちていた。その滝の音と川の流れる音が、吹雪に混じって聞こえる。が、視野が利かず、どれくらいの高さなのかも見えない。
 スサノヲは剣を収め、迷わず飛んだ。自由落下の時間は長かった。足が水に落ちたのを感じた後、おそらくそこが滝壺だったのだろう、しばらく水の中を潜った。濡れた衣や剣の重さに抗い、水中から浮上する。恐ろしいまでの冷たさだった。老人だったら、その一瞬でショック死したかもしれない。
 冷たいというよりも痛い。そして手足の感覚もすぐになくなった。指や足も、ただ自分の身体とつながっている棒のような一部としか思えなくなった。
「クシナーダ!」
 ざぶざぶと歩きながら、スサノヲは何度も叫んだ。吹雪のため声もろくに通らず、視野も利かなかった。探そうにも何も見えないのだ。
 スサノヲはあてどもなく歩き回り、呼び続けた。焦りが全身をさらに冷やした。見つけることのできないこの一分一秒ごとにクシナーダの命が失われていく予感が強くした。
「サルタヒコ! クシナーダはどこだ! 教えろ!」焦りが次第に憤りに変わり、スサノヲは怒鳴った。「俺を助けたように、クシナーダを助けてくれ! 頼む! 頼む!」
 スサノヲは川の中で両手をついた。全身が震えていたが、その震えが寒さのためなのか、それとも恐怖のためなのか、区別がつかなかった。だが、吹雪の大音量以外、返答などなかった。
「くそッ!」
 スサノヲは立ち上がり、またやみくもに歩き出した。そして、はたと自分が間違った選択をしていることに気付いた。吹雪で奪われた視野のため、彼はいつしか川上へ向かっていたのだ。川の流れはかなり強い。
 反転する。そして川の流れだけを見て歩いた。
 そのとき、ふっと吹雪の勢いが弱まった。まるで台風の目にでも入ったように、視野を塗り潰していた真っ白な降雪が開かれ、その隙間に赤い色が見えた。
「クシナーダ!」張り裂けるほど叫んだ。そして走った。
 彼女は滝壺から流され、大きな岩場の間で止まっていた。半ば水につかった横顔は、白いという表現以上に血の気のないものだった。
「クシナーダ!」呼びかけ、彼女の頬を叩いた。
 だが、意識は戻らなかった。かろうじて、呼吸があることは分かったが、もはや死人と変わらぬような状態に思えた。
 スサノヲは彼女を水の中から抱き上げた。彼女の衣から流れ落ちる水は、そのまま氷柱になってしまうのではないかさえ思えた。
 彼女の安全を確保するために、スサノヲは本能的に落ちてきた場所とは対岸に向かった。川の東側の河原に入り、登れる場所を探し、道があるところまでたどり着こうとした。だが深い雪のためにそれは何度も失敗した。ようやく彼女を抱きかかえたまま、川沿いの小道に登ったときには、彼自身、もはやこのまま死ぬのではないかと思えるほど消耗していた。一度、彼女を下におろした。
「クシナーダ……」あえぎながら呼びかける。
 彼女からは何の返答もなく、真っ白な顔はさらに蒼ざめていくようだった。
 気力を振り絞り、スサノヲは彼女を抱き上げた。どこか暖を取れるところを探さねばならなかった。
 吹雪は少し弱まって来ていた。そのおかげで目の前に真っ白な小山が聳えるようにかすかに見えた。濃くなった夕闇の中、そこに小さな光が一つ、灯っているように思えた。
 人が住んでいることを祈りながら、彼は歩き続けた。喉が焼けるようだった。ずぶ濡れで、全身冷え切っていたが、なぜ熱いように思えた。それも錯覚かもしれなかった。
 小山の裾に雪におおわれた巨岩が並んでいた。その間を彼は通り抜け、細い山道を登った。雪に覆われてはいたが、その下に石段のようなものが組まれている個所もあった。明らかに人の手が入った道だったが、スサノヲは幾度もその坂で足をもつれさせ、転びそうになった。
 登りきった場所は、ワの民の祭祀場の一つだった。大きな磐座があり、しめ縄が張られていた。その脇にクシナーダたちが使っていたのと同じような小屋があった。人がいる気配はなかった。さっき見えた光のようなものはなんだったのかと疑うよりも、スサノヲはその小屋の中へクシナーダを運び込んだ。
 岩戸の祭祀場にあった小屋と同じく、そこには薪なども常備されていた。それに秋に収穫された稲の藁が奥に山積みにされていた。クシナーダを藁の上に横たえると、スサノヲは火打石を探し出した。震える手でそれを打ち、藁に火を移し、小枝や薪を組み合わせ、火を大きくした。
 クシナーダのところに戻った。呼びかけるが、意識は戻らない。スサノヲは胸に耳を押し当てたが、心臓の鼓動は探すのを苦労するほど弱く思えた。
 わずかに逡巡したが、彼はクシナーダのずぶ濡れの衣を脱がした。美しい玉のような裸身があらわになる。脱いだ自分の衣を絞り、彼女の身体を拭いた。そして奥にあった藁を引っ張り出し、寝床のようなものを作った。自分も全裸のまま、彼女の身体を抱きかかえ、そして藁で自分たちの身のまわりを覆うようにした。
 自分自身、体温が下がってしまっていたが、それでも抱きしめるクシナーダの身体の方が断然冷たく感じられた。彼は休む間もなく、彼女の身体を、手を足を、さすり続けた。
「頼む……生きてくれ。頼む」
 祈るようにつぶやきながら、彼はずっとさすり続けた。火が衰えないよう、時折藁床を抜け出し、薪を燃やし、そしてまた戻り、互いの体温で暖を取るということを繰り返した。やがて、わずかながら身体が温められる感覚が生じてきた。クシナーダの手足にも血の気が戻ってきたように思えた。
 いつしか吹雪は止んでいた。小屋の隙間から吹き込んでくる風も、嘘のようにぴたりと止まって思えた。
 長い夜だった。
 静寂の中、スサノヲはクシナーダを抱き続けていた。そして、小屋の隙間に黎明の明るさが確認されるようになるころ……。
「う……うん」と、小さくクシナーダが彼の腕の中で声を漏らした。
 はっとしてスサノヲは、彼女の顔を見ようとした。
 薄く開いた彼女の眼が、そこにあった。
「スサノヲ……」
「よかった……よかった!」スサノヲは彼女を強く抱きしめた。
 あ……と抱きすくめられながら、クシナーダは今の状況を漠然と察したようだった。互いに一糸まとわぬ姿のまま、肌を接していることに。
「わたくし……川に落ちて……」
「ああ、でも、もう大丈夫だ。あ、いや」スサノヲは彼女の身を少し離した。「大丈夫か。どこか痛いところはないか」
「あ……」彼女は恥じらうように目を泳がせ、胸の前で手をかき合わせ、みるみる頬を紅潮させた。「たぶん……はい。大丈夫です。どこも痛くない……」
「よかった……。そなたが死んだら俺は……」
 ふいにクシナーダは覚悟が定まったように眼を上げ、二人は見つめ合った。
 目合(まぐわい)が生じた。二人の間に甘く痺れるような霊的な交感が通い合い、自然と口づけを交わした。胸を隠していたクシナーダの手がほどかれ、彼の胸板に、そして腕に回された。
「あたたかい……」口づけの合間にクシナーダが洩らした。「嬉しい……」
 二人はさらに深い口づけを交わし合った。手が互いの身体を求め合った。
 もう二人を止めるものは何もなくなっていた。彼らの間には、隔てるものは何もなかった。
 愛おしい、とスサノヲは思った。これほど他人に深い愛情を感じたことは一度もなかった。その想いがそのまま彼の愛撫となった。手が、唇が、あらゆるところを這いまわり、クシナーダは全身でそれに応えた。
 長い時を待ち焦がれた存在同士がようやく一つになれる。その悦びが二人を貫き、その中で二人は身も心も互いに溶けて混ざり合った。
「あなにやし……えをとめを」
 スサノヲは自分が彼女の中に埋没して、自分がなくなるような心地の中、彼女の眼を見つめて言った。
「あなにやし……えをとこを」
 クシナーダは自分のすべてで彼を受け入れながら、同じように眼を見て応えた。

 そうして二人は、一つになった。


 鳥の鳴き声が聞こえた。
 朝の光があたりに満ちているのが戸板の隙間に見えた。

 二人はこれ以上はないというほどの深い快楽(けらく)の余韻の中で、無限に引き延ばされたような時間を過ごしていた。
「このままがいい……」クシナーダはスサノヲの胸元で囁いた。
「うむ」と返しながら、スサノヲは、しかし、現実の時が自分たちの元に戻ってきたのを感じていた。彼女の背を愛撫しながら、わずかに身を起こそうとして、気づいたことがあった。
「どうなさったのですか」クシナーダは彼の戸惑いを察して顔を上げた。
 スサノヲは自分の胸元を見ていた。ヨモツヒサメから受けた傷が、跡形もなくなっていた。傷みもまったくなかった。
「癒えている……」
 不思議な現象だった。スサノヲは本来、多少の怪我ならすぐに治癒してしまう肉体を持っていた。しかし、ヨモツヒサメに受けたダメージだけはいつまでも残りつづけ、彼を苦しめていた。
 どうやっても拭い去れない汚れが、きれいに洗い清められてしまったかのようだった。
 二人は甘い時を惜しみつつ、衣を身に付けた。焚火のそばに置いてあったので、あらかた乾いてしまっていた。
「戻ろうか、皆のところへ」
 スサノヲはそう言い、クシナーダは「はい」といつものように応えた。
 小屋の戸板を動かし、二人は外に出た。小山の上から見下ろす風景は幻想的だった。
 真っ白な山々の裾野には、雲海が溜まり、ずっと広がっていた。そこに朝陽が当たり、輝くようであり、さらにその上空に目を奪われるほど鮮やかな虹がかかっていた。
「なんと清々しい……」
 スサノヲはつぶやき、彼女に手を差し伸べた。その手を取り、クシナーダは微笑を浮かべた。

    2

 クシナーダを抱いて川を渡っていると、「あっ」という甲高い声が対岸から響いた。蔓などを器用に使って山肌を下りてきたのはスクナとオシヲだった。スサノヲは渡りきったところで、抱きかかえていたクシナーダを下ろした。
「クシナーダ様、ご無事で……スサノヲが一緒だったんだね」
 二人は心底安堵したという表情で二人を迎えた。一緒に河原を歩いて行きながら尋ねる。
「他の者たちは?」
「イタケルやニギヒ様は、他の巫女様たちと一緒。それに今、あのカナンのエステル様たちも一緒になって」スクナが答えた。
「そうか。追手からうまく逃げ延びたのだな」
「ニギヒ様たちが追いかけてきたカナン兵を撃退したから」
 エステルたちの逃走経路が、たまたまクシナーダたちの進路と交わったのは僥倖というべきだった。豪雪によって足を止められなければ、こうはならなかったに違いない。
「スサノヲ……」
 オシヲに呼ばれ、スサノヲは横を歩く少年を見た。
「俺……ミツハに褒められるように頑張った」
「そうか」スサノヲは眼を細めた。そして少年の肩に手を回した。

 帰還したクシナーダとスサノヲを、アナトたちキビの巫女たちは眼を見張って迎えた。
 彼女たちはスサノヲを見るのは初めてだったが、一瞥で心を奪われていた。彼にというよりも、彼とクシナーダ二人そろっての存在に魅了されたかのようになった。
 二人の存在はさして交わす言葉もない中で、まるでオーラが重なり合って柔らかな光を放つようだった。たぐい稀な絆で結ばれた者同士の静かな信頼の気配が満ちており、その姿にはある種の息苦しいような妬ましさを感じた。しかし、その感情以上の憧憬さえも覚えるのだった。
 勘の鋭い巫女たちは、二人に愛し合う者だけが持つ共鳴のヒビキを感じ、それが自分たちさえも癒すという事実に驚かされるのだった。ワの民の斎場の広場には多くの者が集まっていたが、二人がその場に入るのと共に場所の空気がさらに清浄なものへと変わるのに気づいていた。
 その瞬間、彼女らは初対面のスサノヲと何の言葉を交わすこともなく、彼の存在をクシナーダとセットで受け入れたのだった。
「スサノヲ……。よく無事で」
 エステルの言葉にスサノヲはうなずいた。モルデの他、カイ、シモンらも無事にたどり着いていた。
 そこへちょうど、ニギヒの配下の一人が戻ってきた。
「どうだ」と、ニギヒが尋ねる。
「カガチが動き始めました。意宇へ向かうものと思われます」と、配下が答えた。
「少し時を置いて、わたくしたちも後を追いましょう」と、クシナーダ。
「その必要があるのだな」と、スサノヲは尋ねた。
「はい」
「説明してくれるか」
「ヨミから放たれたヨモツヒサメを浄化する〝黄泉返し〟を行わねばなりません。そうしなければこの世は滅びます。そのためには八人の巫女と、スサノヲ、あなたが必要です。しかし、先に争いを止めなければ、そのようなことはできません。タジマの巫女であるアカル様が、カガチを止めるためにそのそばに残っております。その時が来たら、わたくしたちは全力でアカル様をお助けしなければなりませんが、そのためにはわたくしたちが自由の身でいること、そして事があったときにアカル様をお助けできるおそばにいる必要があるのです」
「そのためにカガチを追うのだな」
「はい。まずはカガチを鎮めなければなりません」
「カガチは俺の剣を持っている。常人には持つこともかなわぬ〝力〟を持つ剣だ」
「やはり、そうでしたか。その〝力〟にカガチは取り込まれて、鬼と化したのでしょう」
「そのようなものを鎮めることができるのか」
「わたくしはアカル様を信じます」
「ならば俺も信じよう。俺は何をしたらよい」
「その時が来たら、カガチの動きを止めてください」
「承知した」
 スサノヲは疑問こそ提示したが、他は少しの異論も挟まず、クシナーダたちの提案を受け入れていた。
「だが、カナンにも問題がある。エステルたちはそのイスズという巫女の提案を受け入れたが、ヤイルという男が今、カナン軍を牛耳っている。ヤイルは予言者らしい」
 スサノヲの言葉を受け、クシナーダはエステルの方を振り返った。そして、その瞬間に「あらっ」というように目を丸くした。
「ヤイルは先の洪水を予言し、カガチの軍が壊滅することを的中させた」エステルはやつれた顔に苦渋をにじませていた。「今はオロチの連合軍が分裂し、仲間割れすると公言している。五つの地のキビも互いに憎しみ合うようになると」
 その言葉にはっとなったのは、キビの巫女たちだった。
「まさか……」と青ざめたのは、コジマの巫女、ナツソだった。「あのことを……」


 ちょうどその頃――。
 意宇の湖に近いコジマ水軍の陣に急報がもたらされていた。
「タジマの水軍が攻めてきました!」
 カーラはコジマの本陣の中、指揮官のそばでその報せを聞いていた。彼がもたらした人質となっているキビの家族救出のナツソからの密命。それに沿って、計画が練られている最中のことだった。
「どういうことだ!」コジマの指揮官は顔色を失って叫んだ。
「わかりません! ただ……」
「ただ?!」
「タジマは我らが反乱を起こしたと……」
 指揮官は絶句し、カーラを振り返った。その瞬間、カーラは人質救出の企てが、根底から崩壊する予感を味わった。


「そのお話が本当なら、ヤイルという方は予言者としてのお力をお持ちなのかもしれません」クシナーダはむしろそっと言った。「人には多かれ少なかれ、動物と同じように危機を察知する能力があります。洪水を予知したのは事実かもしれませんが、このような時にもっとも危惧すべきなのは、その方が予言の成就に固執することです」
「固執?」エステルが尋ねた。
「じつは危機的なことを予知することのほうが簡単なのです。出方も際立っていますし、気配もあります。本当に難しいのは、善き未来を提示することなのです」
「善き未来……」
「それは本当の意味での叡智なくしてはかないません。この世が滅びるという予言者は、かつて多く存在します。そうではありませんか、エステル様」
「たしかに……。我が一族にも名だたる予言者はそれを伝えてきた」
「それはたしかに神の如き眼で見たものもあったかもしれません。しかし、人は必ず自分個人の想いによって、その見たものを歪めてしまうものです。どのような貴い人であれ、それをまったくゼロにはできない。真っ白ではないのです」
「真っ白ではない……? どういうことだ? 予言者は神の言葉や神の見せてくれたものを我らに伝えているはず」
「たとえば……このわたくしです」
「え?」
「正直に申し上げます。わたくしは、じつは皆さんの半分くらいしか、色が見えておりません」
 その告白は、巫女たちだけではなく、イタケルやオシヲらにも衝撃をもたらした。
「色が識別しにくい眼なのです。皆さんの感じておられる赤や青、緑や黄、紫……そのような色合いが、わたくしの眼にははっきりと判別しにくいものがあるのです。でも、わたくしの眼にはそれがわたくしの知る世界なのです。わたくしの眼がもっと問題があるものであれば、もしかしたら白と黒しかわからないかもしれません。皆さんと同じものを見ていても、わたくしには違って見える。でも、それがわたくしの見ている世界なのです。が、じつは人それぞれに同じ色でも見るヒビキが違うのです」
 静まり返った。
「見る人によって違う……」エステルが呟いた。
「わたくしは感応する力で、人それぞれが受け取っている赤をヒビキとして感じることができます。だからわかるのです。同じ赤でも、エステル様の見る赤とスサノヲが見る赤は違っています。予知や予言も同様なのです。この世界にはある種のヒビキが強く流れることがあり、それをわたしたちは受け取って、その年の気候やこれから起きることを予見することができますが、それは受け取り手によって解釈が違うのです。またそのヒビキがどこから発せられたものなのかということもあります」
「どこからというと……」
「光なのか魔なのか、というようなこともあるのです」
 カナンの者たちは、顔つきがこわばってきた。
「エステル様、未来はこの瞬間にも無限に変化し続けるもの。それは今のわたくしたちが創造するもので、じつは確定的な未来などない。ましてヨモツヒサメが世に出た今、それを判断することは、わたくしにもできません。ただ……悪しきことの予知を的中させた者は、往々にしてその次の悪しきことの予知を的中させることに固執するようになります。自分が予言する悪しきことが起きることを望むようになるということです」


 同刻――。
 意宇の湖の向こう側で起きた混乱を、ヤイルは黙って眺めていた。満足げに、腕組みをしながら。
「ヤイル様」一人のカナン兵が、ヤイルのそばに来て囁いた。「仰せのとおり、地元のワの民を使って、噂を流してきたことが功を奏したようですな。コジマがオロチを裏切ると」
 うむ、とヤイルは唸った。そして首を左右にゆっくりと振り、周囲に人気がないのを隻眼で確認した。そして剣を抜きながら言った。
「すべては我が予言通り。予言は成就されなければならぬ」
 カナン兵はその剣の光るのを見て絶句した。


「悪しきことを待ち望み、より多くの人がそれを受け入れれば、その出来事が起きることは容易となります。人の意識が大きな力となるからです。立場によっては、もっと具体的に予言を成就する方向へ誘導することさえできるでしょう」
「では、ヤイルは……」
「わかりません。すべては時が証明すること」


「見よ! 我が予言は成就した!」群衆に向かい、ヤイルは叫ぶ。「オロチの結束は乾いた石くれのごときもの! ここよりオロチの崩壊は始まるのだ!」
 沸騰する群衆。しかし、ヤイルの背後には常に冷たいものが貼りついていた。それは綱渡りを休むことなくし続ける者が抱く、胸の悪くなるような恐れだった。
 ヤイルの頭上には、ヨモツヒサメがいた。そのヒサメは嘲笑っていた。
 コジマの反乱の可能性を見抜いたカガチの警告。それが意宇のタジマに本隊にもたらされるのと、奇妙なほどにリンクしてヤイルは策略を巡らせた。ヤイル自身はその発想とタイミングがどこから湧いたのか、知る由もなかった。


「クシナーダ」スサノヲは言った。「そなたはいつも衣を染めていたな」
「はい。それは色をヒビキとして感じることができたからなのですが、わたくしはこの眼で鮮やかな色の美しさを感じることが少なく……だからせめて」クシナーダはにっこり笑った。「他の方の眼を通してその色を感じたかったのです。染めた衣を着たオシヲやミツハが、うわあ、きれいな色だと、そう言って笑ってくれるのがうれしかったのです」
 聞いていたオシヲは、ふと自分の隣にミツハがいるかのような錯覚を覚えた。
「なればこそ、わたくしはこの世にヤオヨロズ――たくさん――の色があることを望みます。それぞれの色が、それぞれのヒビキで輝くこと、そしてそれが高い空から見たときには、大きな一つの美しい風景となるような、そんな世界であってほしい」
 静まり返っていた。
 その中、スサノヲは言った。「それはつまり――それぞれに違う者たちが共に生きる世界ということだな」
「はい――」
「承知した。ならば、俺はそなたの望む世界を守る戈(か)となろう」※戈=剣
 エステルたちは不思議な想いにとらわれていた。クシナーダとの語ることと、カナンの本陣でスサノヲが語ったことが、そのまま同じものだったからだ。
「エステル……おまえはどうする?」スサノヲは尋ねた。「おまえたちカナンの民も、同じ地の上で咲く花の一つとなるのか。それともカナンの花だけでこの地を満たしたいのか。おまえの胸の内を今ここで、皆に語ってくれ」
 視線がエステルたちに集まった。
「愚かであった……」ややあってエステルは言った。「そのような望みを抱いたことと、このワの島国の民たちをおおぜい殺めてしまったことを……わたしは心から後悔している。本当にすまないことをした。許してくれるとは思わない。だが、どうか、この争いを収めるため、我らにできることがあるのなら、協力させてくれないか」
 クシナーダは歩き出し、エステルの前に進んだ。「エステル様、この地で命をお授かりになりましたね」
「え? な、なぜそれを……」反射的にエステルはみずからのお腹に手をやった。
 クシナーダは彼女の前にしゃがみ、そっと腹部に手をかざした。「この子はきっと男の子で……とても強い〝力〟を持つ子です。悪阻がひどいのではないですか?」
「あ、ああ」
「それはこの子がお腹の中にいて、エステル様を浄化してくれているからです」
「わたしを……?」
「はい――」クシナーダは立ち上がり、笑顔を見せた。「母は子を救い、子は母を佐(たす)けるものです。この子はずっとエステル様の苦しみを浄化し続けていました」
「この子が……」エステルの双眸が呆然と見開かれ、涙が溢れた。彼女はお腹に置いた両手を中心に、身体を丸くする。
 モルデがその背にいたわるように手を伸ばした。
「ただ……ちょっと不思議です」クシナーダは戸惑ったように首を傾げ、そしてスサノヲを振り返って見た。
 そのときだった。
 祭祀場につながる山の斜面に甲冑の触れ合う音や男たちの声が下りてくるのが伝わってきた。その気配にはスサノヲはとうに気づいていた。だが、彼は先刻からまったく動くつもりもなかった。
 ニギヒの配下たちが過敏な反応を示し、剣を手にした。撃退したカナン兵たちから奪った剣だ。
「慌てなくていい」と、スサノヲは言った。
「そのようですね」クシナーダも同調する。
 二人が落ち着き払っているので、一同はその場を動くことなく、男たちが斜面を下りてくるのを待つことになった。
「いた! いたぞー!」声が上がる。「エステル様だ!」
 彼らはカナン兵だった。エステルの姿を木立の間に見つけ、勢いを増して駆けつけてくる。彼らに害意がないことを、スサノヲはなぜかわかっていた。まるでクシナーダの持つ霊感が宿ったかのように、彼らの意識がふっと心の中に入ってきたのだ。
 彼らはエステルを探し求めていたが、それはヤイルに討伐を命じられたからではなかった。人数はおよそ三十名ほど。
「戦う意志はない! 我らはエステル様に従う者! ヤイルの元を離れてきたのだ!」
 エステルとモルデは顔を見合わせた。カイやシモンの曇っていた表情にも、にわかに生気のような喜びがにじみ出た。
「エステル様! いかにヤイルが予言を為すとはいえ、エステル様を殺めよなど、もはやとうていついて行けませぬ! どうか、我らもご一緒に!」

    3

 その日のうちに、クシナーダたちは佐草と呼ばれる集落にたどり着いた。そこはやはり古くからのワの民の居住地の一つであり、そばには清らかな泉と冬でも緑が生い茂る森の中にある、身をひそませるには格好の場所だった。意宇の中心地からもほど近く、オロチ本隊に合流したカガチたちの動向を見張ることもできた。※現・八重垣神社付近。
 クシナーダが訪れると、民たちは喜んで寝泊まりする場所を提供してくれた。トリカミの巫女としての威光というよりも、彼女が愛されているからこその対応ぶりだった。カナンからの合流組も含めると大世帯になっていたが、彼らは与えられた家屋で身を休めることができた。
「良いところです、ここは」クシナーダは周囲を見まわしながら言った。
「そうだな」二人で歩きながら、スサノヲも同じように感じていた。
 ワの民の祭祀場は、どこも清浄な空気に満たされている。が、この里のそれはトリカミのそれに近い清浄さで、しかも何か不思議にあたたかいものに満たされていた。
「あら、素敵」クシナーダはある樹木のそばで立ち止まった。
 椿が二本、地から生えていた。が、それは途中ですうっと寄り添うように幹を一つに合わせ、そのまま一本の樹木として成長し、頭上にまで葉を生い茂らせ、花を咲かせていた。根は別々でありながら。
 しばらくクシナーダはその姿に見入っていた。
「面白い椿だな。一つになっている」スサノヲはそう言いながら、その椿の姿に触発されて、自分の中にクシナーダへの愛情が深く湧きおこるのを感じた。
「スサノヲ……」
「なんだ」
「愛しています」クシナーダは椿を見つめたまま言った。
「…………」それは今、彼が感じたものとまったく同じ想いだった。
「わたくしはあなたとこの世界で生きて行きたい。この椿のように」
「俺もこの椿のように、そなたと生きて行きたい」スサノヲは椿を見上げた。「そなたと見たあの雲海と虹……俺は生涯忘れぬだろう。あの雲海の広がりのように、俺はそなたを取り巻いて守りたい。そなたという虹を」
「クシナーダ様――!」スクナが呼びかけながら走ってくる。彼女の背後からキビの巫女たちやオシヲも小走りにやって来る。「すごいものを見つけたよ。あっちに二本の椿が一つになっているのを――あれ?」
 スクナは二人が見ている椿もまた、同じようなものであることに気付いた。
「これもそうだ……」
「こんな椿を他にも見つけたのか」
 スサノヲの問いにスクナはうなずいた。「すごいや……。こんな不思議な木が二つも……」
 巫女たちも到着して、眼を見張る。だが、それは二つではなかった。エステルたちが奥の泉のほうから戻ってくると、声をかけてきた。
「泉がすごくきれいだった。スサノヲ、この地は気持ちが良いな」
「そうだな」
「そうだ。泉のほうに面白いものがあるぞ。椿の木が根では二つなのに、途中で一つに――」エステルは絶句し、目の前にある椿に目を止めた。
「すごいや。三つもあるんだ」と、スクナ。
「え? こんなものがまだほかに……」
「どうしたのじゃ」ニギヒを伴って、その場を通りかかったナオヒが声をかけた。
「こんな不思議な椿が三つもあるんです」スクナが言った。
「ほう。これは面白い。この地には命を結びつける特別な〝気〟があるようじゃな」
「皆さん」唐突にクシナーダは言った。「歌を作りましょう」
 そのあまりにも飛躍したように思える言葉に、他の巫女たちでさえ口をぽかんと空けた。
「クシナーダ、歌なんか作っている場合じゃないじゃろう」と、ナオヒが苦笑した。
「いいえ。今だから歌が必要なのです」
「ほう?」
 クシナーダは、巫女たちと、そしてエステルたちを見渡して言った。「皆さんが心を一つにできる歌を作ってください」
「心を一つに……?」アナトは呆然とつぶやいた。
「はい。アナト様たちはもはや心を一つにされていると思います。ですが、わたくしたちがこれからしなければならないのは、すべての民が心を一つにすること。それができるような歌をこの地で作ってほしいのです」
「わたしたちが作るのですか」
「はい。もちろん。エステル様も協力してください」
「え?!」と、エステルは大きな声を上げた。「わ、わたしがっ?」
「はい。アナト様たちと協力して作ってください」
「む、むりむり! わたしはそんな……そんな柄じゃない」エステルは真っ赤になった。そんな彼女を見るのは、誰もが初めてだったかもしれない。
「できることがあるのなら、協力するのではなかったか」スサノヲがぼそっと言った。
「……いや、しかし」
「エステル様も参加してもらわなければ困ります。カナンの民も共感できる歌でないといけないからです」
「しかし、なんのためにそのような歌なんか……」
「ですから、心を一つにするためです」クシナーダはにっこりとした。「キビの皆様……そう、とくにナツソ様は調べをお作りになるのがとても上手なのですよね」
「は、はい。あの、でも、あまり自信が……」ナツソは物怖じしたように言った。「それに、調べを作るのでしたら、何か鳴り物がなくては……。ここには何も持ってきておりませんから」
 それを聞いていたオシヲが、はっとした。腰紐に差していた一本の笛を手に取る。少し迷ったが、彼はそれをナツソに差し出した。
「あの……これ……」
 それは岩戸の祭祀場でオロチ兵の手にかかって亡くなったミツハの笛だった。
「……使ってください」
「ありがとう、オシヲ」
 クシナーダに代わりに礼を言われてしまい、ナツソはやむもなく笛を受け取った。
「では、皆さん、お願いいたしますね。スサノヲ、他の椿も見に参りましょう」
 クシナーダとスサノヲはその場を立ち去った。
 その二人の背中を見送りながら、うっとりとナツソが言った。「いいなあ、クシナーダ様。あのようなスサノヲ様がおそばにいて……」
「ほんとう……」同じような憧憬の眼でシキも漏らした。
 それにほとんど同調しかけ、アナトはいきなり厳しい表情になって咳ばらいをした。
「な、何言ってるの! さあ、クシナーダ様の言われる歌を作りましょう」そう言って巫女たちを促して歩き出した。が、その場で動かないエステルに気づき、きつい眼で振り返った。「エステル様もです。さあ」
「わ、わかった……」
 エステルがぎくしゃくと歩き出し、ついて行く。
 そんな娘たちの有様を見て、ナオヒは腹を抱えて笑い出した。


 意宇のタジマ本隊に到着したカガチは、しばらくまったく動くそぶりを見せなかった。ある意味、不気味なほどの沈黙ぶりだった。
 意宇の湖で戦いがあったらしいという噂を耳にし、とりわけキビの巫女たちを不安にさせた。その不安の的中は、三日後、帰還したカーラによって知らされた。
「コジマの水軍はほぼ壊滅的な状態です」
 カーラは戦乱の中を生き延び、報告のために戻ってきたのだ。クシナーダたちが移動していたこともあり、場所を探し出すためにかなり苦労したようだった。
「コジマが壊滅……」
 非常に大きなショックを受けたのはコジマの巫女であるナツソ、そしてイズミだった。今回の人質救出の立案を行ったのは、他ならぬイズミであったからだ。
「申し訳ありません、アナト様、ナツソ様……」そうつぶやくと、イズミはがくんと膝を折って、地に手をついた。「人質を救うどころか、さらにもっと多くの者を死なせてしまいました。わたしがよけいな計画を立ててしまったばかりに……」
 イズミは責任感と悔しさのあまり全身を震わせていた。
「いえ……そういうことではないのかもしれません」カーラは言った。
「というと?」アナトが尋ねた。
「わたしたちは慎重に事を運ぼうとしていました。ナツソ様が絶対の信頼を置く方々と、隠密に船を出してタジマやイナバに赴こうと謀ってはいたのですが、その計画自体、知る者はまだほとんどなかったのです。わたしがコジマの陣に到着して、ほんの短い時間しか経過しておりませんでしたので」
「ということは?」
「オロチがコジマを切り捨てようとしたか、あるいは何かコジマとオロチを分裂させるための策略があったのかもしれません。タジマ水軍はこちらに反乱の疑いありとして攻めてきましたが、そのようなことになる理由もまだなかったのです」
「ヤイルかもしれぬ」と、エステルが言った。「ヤイルはもともと知略に長けた男だ。こちらに有利な状況を作り出すために、意図的に噂を流して敵を分裂させるのはヤイルの常套手段だ」
 隣でモルデも頷いた。「じつは先日のクシナーダ様の話を聞いたとき、わたしもゾッとしました。まさにヤイルがやりそうなことを言っておられたからです」
「だとすれば、もうほんの少しだけ猶予があれば……」カーラは残念そうに頭を垂れた。
「くそっ」イズミは小さな拳で地面を叩いた。
 しばらく沈黙があった。
「どうする、スサノヲ」エステルが口を開いた。「キビの人質を救出することは、絶対に必要なことなのだろう」
 その問いに答える以前に、エステルは続けて言った。「我らを行かせてはくれないか」
「なに?」
「ここにいるのはカナンの中でも精鋭ばかりだ。甲冑を捨て、身軽になれば、イナバやタジマへもそう時間はかかるまい。天候さえよければ、三、四日でたどり着いてみせる」
「エステル様はいけません」モルデが言った。「大事なお体です。我らが参ります」
「しかし、そのキビの人たちが囚われて働かされているっていうタタラ場がどこなのか……」カイが疑問を呈した。
「よし、わかった」パン、と両手を叩いたのはイタケルだった。「俺も行く。そのアカルっていう巫女の情報から、俺ならだいたいの場所はわかる。鉄穴流しをしている川は見ればすぐにわかるしな」
「陸路、タジマへの道のりは危険だぞ」スサノヲが言った。
「だが、タジマもほとんど全軍で意宇に集結しているんだろ? なら、むしろ背後は手薄だぜ、きっと」
「そうかもしれぬが……」
「では、我らも」ニギヒが申し出た。
「いや、あんたらにはこの巫女さんたちを守っていてほしい。カナンの連中より、よっぽど信用できるからな。俺はこいつらを見張るためにも行くんだ」イタケルはわざとらしくエステルたちを指さして言った。
 なんだと、というふうな反応をカイは示したが、それはエステルによって抑えられた。
「良いのだ。そのように思われても仕方のないことを我らはしてきた……。モルデの言う通り、わたしがここに残る。おかしなことをすれば、このわたしの命を好きなようにしてくれてかまわない」
 イタケルは眼を細めた。そして小さく、何度か頷いた。
「決まりだな」

 そうしてモルデとイタケルが率いる一団が、その日のうちに発つことになった。
「オシヲ、イタケルに領布を渡してください」彼らを見送るとき、クシナーダが言った。「その領布には魔を祓う力があります。ヨモツヒサメに対しても、多少なりとも効果があるはず」
 オシヲから引き継いだ領布を首にかけると、イタケルは「じゃな」とあっさりと手を挙げて歩き出した。
「モルデ……くれぐれも気を付けて」
「ご心配なく、エステル様」
 言葉を交わしたのち、モルデもまたイタケルを追って歩き出す。
 カーラはアナトたちを守るため、そして彼自身が偵察の能力に長けていたため、意宇の動向を監視するために残された。
 歌が出来上がったのは、その日の夜のことだった。
 キビの巫女たちと、カナンの中で一人残ったエステルは、その歌を携えてクシナーダの前にやって来た。ナオヒは「若い者に任せる」と言って、歌作りには参加しなかったようだが、その歌を聴くために同行してきた。
「歌詞は皆で考えました」と、アナトが言った。
「調べも降りてきたのですが……」ナツソもためらいがちに言った。「このようなもので本当によいのか……」
「聞かせてください」と、クシナーダが言った。
 スサノヲやニギヒも見守る中、ナツソの笛が高らかに鳴り響いた。前奏の後、巫女たちとエステルが歌い始めた。慣れていないエステルは、顔を紅潮させ、それでも巫女たちに指導されたのか、懸命に声を上げていた。
 今まで一度も耳にしたことのないような調べだった。巫女たちが日常の神事に使う、雅やかで緩やかな調べとはまったく異なる曲調だ。それは力強いヒビキに満ちていた。
 歌が終わった。
「いかがでしょうか……?」恐る恐るという感じで、アナトが尋ねた。
「や、やっぱり、だめですよね」と、ナツソも狼狽しながら真っ赤になった。
 しかし、クシナーダはにっこりと笑顔を見せ、自分の拳を胸に当てた。
「なにか聞いていて、心が鼓舞されるような、すばらしい曲です。胸が熱くなりました」
 巫女たちはほっとした表情を、互いに確認し合った。
「心の岩戸を開いて……。これで、わたくしたちはきっと心を一つにできます」
 クシナーダはスサノヲに眼をやった。スサノヲは頷いた。
 ――あとは、とスサノヲは考えた。
 あとは、時が至るのを待つだけだった。

    4

 月が満ち、そしてその後もなお、カガチは長く動かなかった。オロチとカナンは限定的な小競り合いを繰り返していたが、決定的な戦端は開かれなかった。
 水面下でだけ、何かが動いている。そんな気配が濃厚だった。
 クシナーダはその数日、エステルと過ごすことが多かった。何をしているのだろう、とキビの巫女たちも訝るほど、二人は集中的に時間を共有していた。
 その日、クシナーダはエステルを佐草の里の神域にある泉へ連れて行っていた。太い杉木立が取り囲む杜の中に、その小さな泉はあった。静かな気配があたりには満ちていて、そこに佇み、ただ息をしているだけで、清浄なものが満たされていく。
 寒風の中、二人の姿は泉の中にあった。むろん、クシナーダの指示である。澄んだ水は凍りつくほど冷たく、水に漬けた足からみるみる凍りついてしまいそうだった。
「本当は全身を浸すのが良いですが、エステル様は身重ですし、これで良しとしましょう」
 クシナーダは両手で泉の水をすくい取ると、エステルの頭の上から注いだ。その冷たさにエステルはびくっとなる。
「お顔を洗ってください」
 言われるままにエステルは、顔を水面に近づけ、両手で顔を洗った。かがめた胸元から、彼女が身に付けている首飾りの宝珠が垂れ下がった。そして、それも泉の中に浸かった。
 その宝珠は、どう見てもクシナーダたち巫女が身に付けている勾玉と同じものとしか思えなかった。
「大丈夫ですか」と、クシナーダが尋ねる。
「ああ、なんというのか……すごく心地よい」
「出ましょうか」
 二人は泉を出た。持ってきていた布で足を拭く。
「これはどういう意味があるのだ」
「禊をして頂きました。穢れを洗い清めるためのものです」
「ミソギ……」濡れないようにたくし上げて衣装を戻しながら、エステルは遠くを見るような眼になった。「不思議なものだ。カナンの民にも似たような風習がある」
「さようごございますか」
「それに……前から思っていたのだ。これはなぜ、そなたらの物と似ているのだ」と、自分の宝珠を人差し指と親指で持つ。
「勾玉はずっと昔からございます」
「これは失われたカナンの神殿にあったもの。多くは略奪されたが、これだけは残され、わが一族に伝えられたという……。神を象(かたど)ったものだと聞いている」
「さあ、なぜでしょう」うっすらとクシナーダは笑ったが、その顔には答えがわかっているが、あえてあいまいにしているような表情が滲んでいた。それは勿体ぶっているというよりも、沈黙しながら提示するという、そのような姿に見えた。
 身なりを整えた彼女らは、泉を離れて歩き出した。
「教えてくれないか。なぜ、そなたらはこれと同じものを持っているのだ」
「エステル様。それはあなたの言う神も、わたくしたちの言う神々も、同じ、ということではないのでしょうか」
 ぎょっとしたようにエステルは立ち止まり、そして同調せずに静かに歩を進めるクシナーダを追って足を速めて追いついた。
「馬鹿な。唯一の神と、そなたらの神々は何もかも違う」
「エステル様、わたくしたちはあなたが言う唯一の神というものを否定してはおりません。わたくしたちはこの天地(あめつち)すべてを尊んでいるだけのこと。それを神々と呼ぶのです。でも、わたしくしたちは唯一の神が存在しないなどと、一度も言ったことはございません。それを意識しなくても、この天地のすべてを尊ぶ気持ちがあれば、それは同時に唯一の神を尊ぶのと同じことだからです」
「すべてを尊ぶ……」
「この空も大地も風も、そして人や他の動物たち、草木や花も、すべて尊い。わたくしたちの先祖もまた尊く、わたくしたち自身もまた尊い。エステル様やカナンの民も同じく、尊いのでございます」
「それがおまえたちの考え方か」
「エステル様、ただ一つのものを尊ぶというのもまた崇高なことなのですが、それには一つの落とし穴があるのです」
「落とし穴?」
「ただ一つのものを認めるということは、その瞬間に敵を作り出してしまう危険があるのです」
 ぎくっとして、再びエステルは歩みを止めた。今度はクシナーダも立ち止まり、振り返った。
「エステル様にはもうお分かりだと思います。一つのものだけを認めるということの裏側には、それ以外のものを否定するという想いが秘められているのです。そこにもし寛容さがなければ、敵を作り出すのは必定」
「つまりすべてを尊ぶというそなたたちと、我らカナンの民はまったく逆だということだな」
「けれど、真(まこと)の神の御心に至れば、この世のすべてに神の慈愛が満ちていることを知ります。辿る道は違えど、至るところは同じなのです。その時には敵は存在しなくなっています」
 エステルは眼を下の方に落とし、それから思い出すように上の方へ向かわせた。「亡くなった父から聞いたことがある。カナンの地に、百年ほど前に救い主と期待された男が現れたことがある、と。カナンの民はその男が神の使いとして、カナンを大国の圧政から解き放ち、かつての栄光を取り戻させてくれると信じて迎えた……。が、その男はこういったそうだ。
〝汝の敵を愛せ〟――と。
 カナンの民は落胆し、その男を見限り、処刑台に送ったそうだ」
「エステル様、あなたがたにとって神への信仰は何物にも代えがたい大事なものとはわかります。ですが、人にはそれぞれに大事なものがございます。大切な守りたいもの、それは人それぞれにあると、今のあなたならわかっておられるのではありませんか」
 そう言われ、エステルは自分の腹部に意識を向けるようなそぶりを示した。
「あなたは今、ご自分が弱くなったようにお感じかもしれませんが、そうではありません。守るべきものが、二つになってしまった。その間で苦しまれたことでしょう。でも、それは弱くなったのではなく、優しくなられたのです。そうして他のものを受け入れて行くことこそ、真の強さ……あなたは本当は強くなられたのです」
 く……とエステルは両方の拳を握り固めた。
 そのとき、オシヲが杜を駆け抜けてくるのが見えた。彼の後からスサノヲも歩いてくる。
「クシナーダ様!」
「どうしたのですか、オシヲ」
「カガチが動き出した! 意宇のオロチ軍が動き出したんだ!」
 クシナーダはエステルを振り返り、うなずいた。そしてオシヲのほうへ向かって言った。
「わたくしたちもすぐに発ちましょう。オシヲ、皆さんに知らせて」
「わかった」
 クシナーダはオシヲと共に佐草の集落へ向かって先を急いだ。それとすれ違ったスサノヲは、後からやって来るエステルをその場で待っていた。
「どうした?」と、声をかける。
「なんでもない……」エステルは涙ぐんでいたのを悟られぬように、顔を横へ向けていた。そして、小さく言った。「ああも、たなごころを指されてはな……」
「クシナーダのことか」
「不思議な娘だ。おまえが愛するのも分かる」エステルは足を速めた。


 カガチの行動は、カナンに呼応したものだった。
 意宇の湖の南に陣を張っていたカナンだったが、すでにこの時、非常に強い危機感に見舞われていた。タジマ水軍とコジマ水軍の内乱的な戦闘の後、カガチはコジマを完全に掃討してしまうと、すみやかにコジマの代わりに意宇の湖西側の前線基地にタジマの水軍を回らせた。このとき腹心のイオリをこの指揮に当たらせ、東西から完全にカナンを挟撃できる態勢を整えたのだ。
 戦力は二分された形だが、それでもなお意宇にはタジマ本国の軍勢が六割がた残されていた。前新月以来の戦いで敗走を続けたカナンの勢力に対して、もはや相当に有利な状況だった。一気に攻め込むことができずにはいたのは、豪雪以来、不順な天候が続いたためである。
 カガチにしてみれば、もはや焦る必要はどこにもなかった。ワの国に根を張った状態なのは彼らであり、時間が経過すればするほど、カナンにとっては食料の不安も生じてくるはずだったからだ。今や当初の支配地域も狭められ、カナンは意宇の湖の南にある拠点に封じ込められ、身動きできなくなっている。
 その現実は、じわじわとヤイルの首を絞めてきていた。このまま時を過ごしても、事態が好転する要素は一つもなかった。彼にとっての最大の好機は、タジマ水軍とコジマ水軍の分裂を生じさせた混乱に乗じることだったが、よりにもよってその先鋒を任せるべく待機させていた精鋭部隊が、まるごと消えてしまったのだ。突撃の機会を逸したまま、その精鋭部隊がエステルのもとへ去ったとわかったのは、かなり時間が経過してからだった。
 次の新月が近づき、天候がわずかばかり回復した。日差しが降り注ぐ日が続き、残されていた雪の下から地面があらわになり、ヤイルは行動を起こした。
 残された戦力で、オロチとカガチを討ち果たす――もはやそれ以外の選択肢がなくなってしまったのだ。それは悲壮な覚悟を必要とする決断だったが、ここに至ってもなおヤイルにはわずかな勝算が残されていた。
「我らはこの戦いに勝利する! 神は我に見せたのだ! 勝利の瞬間を! 今こそ持てるすべての力をぶつけ、意宇のオロチどもを粉砕するのだ! さあ、馬を出せ! 我らの騎馬は敵を滅ぼし、カガチを殺すだろう! 我に続け!」
 ヤイルは虎の子である騎馬を投入した。それはこの戦いが始まる以前に、わずかずつではあるが、大陸から運び込んできた貴重な戦力だった。
 ワの地は山野が多く、騎馬が活躍するには、やや不向きだった。そのためこれまでの戦いでは温存されることが多かった。先進的な弓矢、剣や鎧だけで勝利できたということもあった。
 カナンは拠点を離れ、東へと全兵力を移動させた。そして意宇との中間地点の山麓、わずかばかりの平野が開ける場所へ陣を構えた。背後に山を置き、そこにタジマ水軍への守備隊を配置し、戦力の大半は東へと向けた、一点突破の戦略だった。その中核となるのが騎馬隊だった。
 ――カガチが来るか。
 ヤイルは冷や汗をずっと流し続けるような心境で待ち続けた。
 ――カガチよ、来い。
 恋い焦がれた相手を待ち望むような熾烈さだった。もしカガチが後方で待機し、持久戦に持ち込まれたら、もはやカナンに明日はなかった。この戦いでカガチを討ち取らねばならなかった。
 カヤの砦の奪還に現れたときの鬼神。あの恐るべき男が、あの時と同じように先頭に立って現れてくれることを、ヤイルは全身全霊で神に願った。でなければ、勝機はなかった。
 新月となる日の朝、平野の向こうにオロチ軍は出現した。小さな川を挟んで、両軍は対峙した。
 ヤイルの隻眼は、その軍勢の中にひときわ背高い男の姿を見出した。遠目過ぎて、とうていその容貌を確認することはできなかった。が、その大男の周辺に群がる軍勢の密度が、彼にそれが大将であることを悟らせた。
 ごくりと喉仏が上下した。


 カガチはヤイルの対岸にいた。小山を背後に陣形を整えているカナン軍を見つめると、彼は笑った。それはただの笑いではなかった。
 肉食獣が久々の獲物を目の当たりにしたような、欲望と喜悦が入り混じったような鬼気迫る笑みだった。側近の一人、ミカソはその横顔を見て、心底思った。恐ろしい、と。そして同時に、カガチのような男の敵に回らずにすんでいる幸運を思った。
 カガチは残らず敵を殲滅するだろう。その血をほしいままに浴びるだろう。
 その真っ赤に染まった姿が、すでにミカソには見えていた。

 そのカガチのはるか後方。
 輿に載せられたヨサミとアカルがいた。彼女らは戦いの鬨(とき)の声が上がるのを、そこで待たされていた。
 アカルは苦しげに空を見上げた。そこにある邪悪な気配を――。
 勾玉をつかみ、祈るように。
「アカル様――」
 隣の輿から、ヨサミが声をかけてきた。
「大丈夫ですか。お加減が悪そうな……」
「ご心配なく」
 アカルの真っ青な横顔を見て、ヨサミは輿から身を乗り出しかけ、そしてやめた。この囚われに等しいタジマの巫女がどのようになろうが、自分の知ったことではない――そのように言い聞かせた。だが、無視してしまうには、あまりにもアカルの存在はまぶしかった。
 彼女のつかむ勾玉が光っているのが見えた。それはヨサミにわずかに残された霊視的な感性による視覚だった。
「アカル様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」
「はい……」息をするのさえ、苦しそうだった。
 なぜそうまでして――ヨサミは思うのだった。
「アカル様にとって、カガチ様はどのような存在なのでしょうか」
「カガチ……」アカルは辛そうな眼差しで、ヨサミを振り返った。「カガチはわたしの――」
 後に続く言葉は信じがたいものであり、ヨサミは唖然とし、返す言葉も失った。


「アカル様に〝力〟を――」
 クシナーダの言葉に、巫女たちは集まった。キビの四人の巫女とナオヒ、そしてクシナーダの六人は輪となった。そして互いに手を結びあい、意識を離れているアカルへと向けた。彼女らのそれぞれの霊能が解き放たれ、視野が拡大し、その視覚で捉えられたものが彼女らの取り囲む空間の中に浮かび上がった。アカルの姿だった。
 そのそばにヨサミもいた。
 ヨサミ、とアナトは呼びかけた。それはアナトの呼びかけであったが、同時に巫女たちすべての想いでもあった。
 ア――――
 クシナーダが最初に澄明な声を上げた。アーともハーともつかぬ、不思議なヒビキの声だった。
 ア――――
 アナトが続いた。わずかに声のヒビキが異なる。
 ア――――
 シキがさらにそれにかぶせて行く。
 六人の声のヒビキが重なり合い、彼女らの中心に浄化の光が送り込まれていく。
 その光はますます強まり、やがては霊的な能力がない人間にさえ、それが実感されるほどになった。彼女らの胸に下がっている勾玉が、はっきりとわかるほどの強い輝きを放っている。
 彼女らのそばでエステルは、驚きをあらわにして見守っていた。
 熱い、と思った。そしていつもは衣服の下に隠している宝珠が、その熱さの元だと気づき、胸元からそれを取り出した。
 眼を見張った。
 掌の上で、宝珠は信じられないほどの光量で輝いていた。まるで巫女たちに共鳴するかのように。
「ア――」
 ためらいがちにエステルは、彼女らと同じような響きを発していた。つられるように、ごく自然に。
 スサノヲは巫女たちを背後に、小高い山の突きだした岩の上に佇んでいた。
 眼下に狭い平野が広がっていた。川の両岸に二つの軍勢がそれぞれに展開し、対峙している。
 双方の陣営の上空に、真っ黒い霧のようなものの集まりが、いくつも点在していた。双方に四つずつ。
 ヨモツヒサメたちだった。
 それは地上に満ちている敵意、悪意、憎悪、恐怖などの想念を吸い上げていた。と、同時に吸い上げた想念を、その何倍もの濃度で地上に送り込んでいた。そこには「浄化」とはまったく位相を逆にした循環があった。人の「負」の想念が、ヨモツヒサメという媒体を通じることで、さらに強力な「負」へと変換・凝縮され、人へ還元されているのだった。
 そしてそれを受け取った地上では、さらに濃厚な闇が広がり続けているのだ。
「いよいよですね」隣にやってきたニギヒが言った。
 スサノヲはただ黙ってうなずいた。ニギヒは霊感など微塵もなく、この光景を見ることがない幸運を知らない。もし目の当たりにしたならば、この光景には絶望の感情以外、何も覚ええないだろう。このようなものがこの世に存在しているのならば、地上には地獄的な現実しか生み出され得ないはずだからだ。
 あれを滅すること。
 スサノヲは思った。それが自分の役目なのだと。
 だが、それはまったく絶望的に思えた。圧倒的なヨモツヒサメの〝力〟の前には、スサノヲでさえなす術もなかったのだ。その方法も可能性も、まったく彼には見えなかった。

 陽が中天を越えたころ、鬨の声は上がった。

    5

 カナンとオロチ。
 双方の軍勢は雪崩を打つように走った。そして、無数の弓矢が空を行き交った。降り注ぐ矢に射抜かれ、次々と兵士が倒れて行く。胸を、脚を、頭や眼を、矢が突き刺さって行く。
 両軍を隔てている川は、みるみる血で染まった。まるで鉄穴流しをしているかのように。
 槍や剣を携えた兵士たちが累々たる屍を越え、それぞれの敵へと向かっていく。そしてさらに凄惨な殺し合いが繰り広げられた。
 ――ヒャハハハハ!
 ――殺セ! 殺セ! モット殺セ!
 狂喜乱舞する上空のヨモツヒサメたち。
 死の力そのものであるヨモツヒサメは、現実に生み出される死によって、さらに際限なく膨張した。そしてその〝力〟は今、一人の男に注ぎ込まれようとしていた。

 ふっとカガチは笑った。「もはや待てぬわ。この剣もさらなる血を欲しがっておる」
 彼は黒い霧のようなものを濃厚に身にまといながら立ち上がった。
「カガチ様、お供します!」ミカソの叫びなど聞こえていない。
 身がはち切れそうなほど、殺戮への衝動が疼いている。それは性的な欲求が立ち上がって来るのにも似ていた。どうしようもないほど血に飢えた自分がいて、しかも、それを制御するすべはまったく何もないのだ。
 カガチは川へ向かって歩を進めた。悠然と。
「カガチだ!」
「敵の大将だぞ!」
 その叫びはヤイルの耳にも届いた。ヤイルは弓矢の部隊に命じた。
「あれだぞ! カガチに放て!」
 数十という矢が放たれた。カガチは抜刀し、降り注いでくる矢を二度、三度と払った。それらはほとんど薙ぎ払われたが、うち一本だけが肩に突き刺さった。
 カガチは矢を自ら力づくで引き抜いた。矢じりが抉り取った血肉をまき散らす。が――。
 カナン兵たちは見た。カガチのその肩の傷は、見ている間に傷が盛り上がり、流血も止まってしまうのを。
「ば、化け物だ……」
 川の中で腰を抜かしてしまう者。敵に背中を見せ、敗走する者。
 カガチの肉体は常人のものではない跳躍を見せた。ふぬけのようになったカナン兵たちの首を、次々にはねて行く。あるいは鎧ごと断ち切ってしまう。


「クシナーダ」スサノヲはその時言った。「俺は行く。これ以上、カガチを放置できない」
 彼の姿は岩上から消えた。
 アカルに力を注いでいたクシナーダたちもその作業を中断した。
「わたくしたちも参りましょう」
「おい!」ニギヒの号令で配下の兵たちが駆け寄ってきた。


「神のご加護は今ぞ! さあ、行け! カガチの首を取るのだ!」
 ヤイルの号令と共に、三十の騎馬隊が走り出した。その中にはヤイル自身の姿もあった。
 騎馬隊の戦力は、この局面では圧倒的だった。押し寄せるオロチ軍の波を突き破り、カガチに向かって突進していく。


「来よったな」カガチは残忍な笑いを浮かべ、押し寄せる騎馬隊を迎えた。
 フツノミタマの剣を掲げ、それを溜めた〝気〟とともに横殴りに払った。まるで瞬時に湧いた暴風のように、その剣圧が騎馬隊のみならず、あたりにいた者を吹き飛ばした。近くにいた者など、敵味方によらず、胴が分断された者さえいた。
「おお!」カガチのすぐ後ろにいたミカソは驚嘆した。
 殺到していた騎馬隊の半数は、それで馬が跳ね上がり、乗っていた者を振り落してしまった。コントロールを失ったまま近くに暴走してきた馬の手綱に手を伸ばし、カガチは跳躍して、その背に飛び乗った。
 圧倒的な気迫で、恐慌状態の馬を押しつぶすように制圧下に置く。
 そこへヤイルたちが近づいた。ヤイルはカガチが馬上にいるのを見て愕然とした。そして、手綱を引き、馬をかろうじて立ち止まらせた。しかし、他の兵たちはそのままカガチに向かって行き――。
 カガチの剣が舞った。それはもう物理的な距離など問題にしなかった。
 騎馬隊の兵士たちは馬上で、一度もカガチと剣を交えることもなく、次々に腕や首が宙に飛んで行った。
 それを見て、ヤイルは転進した。左は海からタジマ水軍が寄せてくる途上にあった。本能的にヤイルは右へ馬を走らせた。カガチはそれを追ってきた。
 あっけないほど短時間で壊滅したカナンの騎馬隊。残された馬たちは暴走し、オロチ軍の後方へと駆け込んで行った。そのうちの何頭かは周囲を取り囲む兵士たちの中で右往左往し、それがアカルとヨサミの輿にも近づいた。
 アカルの身体が宙に舞ったのはその時だった。何が起きたのか、ヨサミが気づいたのは、アカルがその馬の背に乗り、馬に対して何事か囁いている姿を見たときだった。
 興奮状態だった馬は、アカルの囁きを受け、鎮まった。
「さあ、連れて行っておくれ」アカルがまた囁いた。
 馬は、アカルを乗せて走り出した。
 ヨサミはアカルの背が馬上で揺られているのを見、それから慌てて輿を飛び下りた。
「ヨ、ヨサミ様! どちらへ?!」
 輿を担いでいた者の声を無視し、ヨサミはアカルを追って走り出した。

 ヤイルは馬上で、二度、カガチと剣を合わせた。
 だが、その二度目の時にあまりの衝撃に全身が痺れ、落馬した。したたかに頭を打ち、唸りながら隻眼を上げたときには、すでにカガチの剣が頭上に突きつけられていた。
「どうした、隻眼の男」カガチもまたすでに馬を捨てていた。「おまえだろう、ヤイルとかいうのは」
 ヤイルは血の気を失った顔面に、みるみる脂汗を滲ませた。後ずさりしながら、手が落とした剣をまさぐる。
「おまえの眼には、どんな未来が見えておる」カガチは嘲笑いながら、ぐっと顔を突き出した。「カナンの勝利か? 俺の死か? さあ、どうした、おまえの神とやらは。おまえを助けてはくれぬのか」
 は、は、と短く熱い呼吸を繰り返すヤイル。その呼吸は今にも途絶えてしまいそうなほど、切迫したものだった。手がようやく剣の束に触れ、彼はそれをつかむと、喚き散らしながらカガチに突き上げた。
 ひょい、とカガチは首を振ってそれをよけた。立ち上がったヤイルは猛然と、狂ったように剣をふりまわした。二人は体格的にはいい勝負で、一見、豪傑同士が戦いを繰り広げているように見えたかもしれない。だが、その中身は大違いだった。
 カガチはまるで子供のふりまわす剣をあしらう大人のように、ヤイルの剛剣をかわし続けた。その姿はあまりにも余裕に満ちており、両者の間には歴然とした力量の差があった。カガチは相手の錯乱ぶりを楽しんでいた。
 打ち込んできたヤイルの剣を弾き返し、ひゅっ、とカガチの脚が鞭のようにしなった。その猛打を浴びたヤイルは吹っ飛んだ。茂みの中に巨体を飛び込ませていく。
 剣を肩に担ぎ、カガチはなおも相手が立ち上がってくるのを待っていた。ヤイルはそばにあった椿の木の枝をつかみ、それを折りながら、ふらふらになりながら起き上った。粉々に挫けそうな闘志をかき集め、相手に向かって行こうとし、愕然となる。彼がつかんでいる剣はすでに折れていた。その手がぶるぶる震えはじめる。
 それを見てカガチは、剣をその場に突き立てた。来い、というように、指でヤイルを招いた。もはやヤイルには正常で理性的な思考能力はなかった。そんなものは蒸発して消え失せていた。
 うおおおおお、と叫びながら、ヤイルは肉弾戦に転じた。その拳をカガチは左右の掌でそれぞれに受け止めた。
 カガチの手の中にあるヤイルの拳が、次の瞬間にまるで熟し切った果実のように握りつぶされた。はらわたをねじって出すような、ものすごい絶叫が上がった。ヤイルの隻眼は飛び出さんばかりに、みずからの潰された両手を見ていた。
「終わりだ」カガチは宣告し、突き立てていた剣を手にした。
 ヤイルの眼が、その太刀筋を見ることはできなかった。あまりにも素早くふるわれた剣は、彼の両腕を切り落とした。その痛みを感じる暇さえなく、剣は斜めに振り下ろされ、首元から胴体に深々とした裂け目を作った。
 そこら中に血しぶきをまき散らしながら、ヤイルはその場に崩れ落ちた。目の前に、彼が散らした椿の花が落ちていた。
「花……」
 それが彼の見た最後のものだった。

 甲高い笑い声が、狂気のように響いていた。それはヒステリックで、邪悪な喜びに満ち満ちていた。
 その笑い声の下で、殺し合いが続いていた。
 カガチはその主戦場に戻ろうとした。が、背後に感じた気配に立ち止まった。
 ゆっくりと振り返った。
 絶命したヤイルのそばに一人の男が佇んでいた。腰をかがめ、彼はヤイルの眼を閉じさせると、カガチに向き直った。
「何者だ」
「スサノヲ――」
「カナンの者か」
「いや、違う。その剣の元の持ち主だ」
 カガチは自らの手にあるそれに目を落とした。「ほう。しかし、これは今の俺のものだ」
「そのようだな」
 スサノヲはカガチの携える剣が、すでにかつてのフツノミタマの剣ではなくなっていることに気づいていた。何百という人の血を浴び、命を吸い、その剣はもはや妖刀と呼べるほどの、異様な気配を放つようになっていた。
「だとしても、それをおまえの手に渡してはおけぬ」スサノヲは剣を抜いた。
「ほお……」
 カガチは眼を細めた。スサノヲのその姿を一瞥し、彼は悟っていた。
 これは上玉だ、と。これほどの敵は、ここしばらく出会ったことがない。少なくともカガチが今の巨大な〝力〟を手に入れたからというもの、ただそこに在るだけで、カガチに対抗できる気配を持つ者はただの一人も存在しなかった。
 いや、そうではない――。ただ一人だけ、あのクシナーダを除けば、である。
 クシナーダにはなぜか、戦わずしてカガチを挫く得体のしれない〝力〟があった。圧倒されるというのでもない。ただのか弱い娘に、なぜかカガチは自分の意志が、傷一つつけられないのを感じていた。
 ――わたくしたちは花。
 そう言いきってしまえるあの巫女の心は、おそらくどのような暴力によっても屈服させることができない。何をする前から、それがわからされてしまうのだ。
 こいつは……。
 はたと気づいていた。この男はただ強いのではない、と。クシナーダのことを思い出さずにはおれないほど、スサノヲの背後にはあの巫女の気配が濃厚に感じられるのだ。
「思い出したぞ……。アシナヅチが死ぬとき、クシナーダが貴様の名を口にしていた……。貴様、トリカミの者だな」
「俺は、カガチ、おまえと同じ身の上の者だ」
「なに?」
「住むところを追われ、この島国に流れ着いた……。言わば、そのような身の上ということだ。おまえもそうなのだろう」
「…………」
「剣を収めろ、カガチ。おまえが戦っているカナンもまた同じ身の上。そのような者同士でこの場で殺し合い、憎み合い、それがなんになるのだ。おまえは、おまえが大陸で受けた悲しみを、この地であらたに作り続けているだけではないか」
「黙れ……」怒気がカガチの顔を彩った。
「家族を……母を殺されたのだろう。飢え、死の恐怖に怯え、おまえは海を渡った」
「やめろ」
「そのような苦しみを、ここで再現し続ける必要はないのだ。楽になれ」
「やめろと言っている!」
 カガチは猛然と飛びかかった。その剣は、スサノヲでさえ、ぞっとするほどの鋭さで襲い掛かってきた。かろうじて刃を合わせ、横へ逃がす。と、間髪を入れずにカガチの脚が唸りを上げて、かばったスサノヲの腕のガードごと吹き飛ばした。
 軽々と五メートルは弾き飛ばされ、スサノヲは河原の土手に背中を打ち付けて止まった。ガードした腕が痺れていた。
 とてつもない身体能力だった。その力は、ほとんどスサノヲのそれに匹敵するか、あるいは凌駕さえしていた。
 カガチは闇の衣をまとっていた。それは上空のヨモツヒサメから還元された〝力〟でもあり、また彼自身が持つ鬼神の〝力〟でもあった。もはやそれらは融合し、分かちがたいほど緊密な結びつきを生じていた。一つの生命体であるかのようだ
 だが、その濃密な闇の中に、スサノヲはかつてクシナーダが視たのと同じものを視ていた。泣き叫ぶ子供の姿――。母のそばで号泣する男の子――。
 彼がカガチについて語ったのは、口から出まかせでもなければ、誰かから聞かされた情報でもなかった。カガチ自身から伝わってきたイメージだった。
 そしてその悲しみや憎しみ、あるいは強い悔悟、罪悪感、それこそが今のカガチを作っている大本だった。
 ふううう、とスサノヲは息をすべて吐き出し、全身をゆるめた。
「来い、カガチ。おまえの悲しみと憎しみ……。俺がすべて受けてやろう」

2015_04_04



    1

 椿の花弁は四枚になっていた。その朝――。
「スクナ、里の様子はどう?」
 やはり朝餉を持ってきたスクナに、クシナーダは戸口のところで見張っている兵士にも聞こえるように言った。
「どこもかしこも怪我人だらけ。里の人も、それに」ちらっとスクナは兵士を振り返った。「洪水に巻き込まれて助け出されたオロチの兵とかも……病気になる人も出てきてる」
「その人たちの食事はどうなっているの」
「オロチの? この里のを分けてる」
 クシナーダは、それでいい、というふうにうなずいた。
「でも、このままだとこの冬が越せなくなるって、みんな言っている。里で貯めていた食料だって、そんなに余裕があるわけじゃないから」
 おい、と兵士は口を挟みそうになった。が、クシナーダの声がそれをとどめさせた。
「分けておあげなさい。先のことはいいから怪我をしている人や病人にはたくさん食べてもらいなさい」
「え……」
「あの……」アナトが横から言った。「ことが終われば、キビから食料を届けさせます。皆様に不自由な思いは絶対にさせませんから」
 躊躇するスクナに、クシナーダはさらに驚かせるようなことを告げた。「スクナ、あなたも怪我人の治療に力を貸してやってほしいの。お願い」
 少女はクシナーダの顔を見たまま、固まっていた。
「できない?」
「できなくはないけれど……それでいいいの?」
 オロチ軍の兵士は、この里を蹂躙したのだ。民を殺め、犯し、ものを奪い、無辜(むこ)な赤子でさえその例外ではなかった。里人にとって絶対に許しがたい存在である。脅され、食料を供出しているだけでさえ、たえがたい苦痛であり憤懣の種に違いなかった。それをさらに傷や病を得た者を助けるなど、心情的には考慮の余地さえないものであるはずだった。
「そこのお方」クシナーダは立ち上がり、兵士に言った。「わたくしを里の者たちと会わせてください。あなた方を助けるように説得いたします」
「え……あ……」あまりにも常識離れした提案に兵士は仰天した。
「あなたの一存で決められないなら、カガチを呼んできてください」
 狼狽の挙句、彼は戸口から仲間に叫んだ。「おい!」と。

 朝餉の後、やってきたカガチと共にクシナーダは囚われの家屋から出た。戸口から外を見るくらいは許されていたが、外を歩くのは久々だった。
 その姿を見て、里人が引き寄せられるように集まってきた。「クシナーダ様だ」と声を掛け合い、次々に家を出てくる。
「よけいなことを喋るようなら里人を殺す」カガチはそばで唸るように告げた。
 しかし、クシナーダはふっと吐息のような笑いを発した。
「なにをそんなに怯えているのです」
「なに?」
 クシナーダは歩みを止め、カガチを仰ぎ見た。「あなたのしていることは滑稽ですよ、カガチ。あなたは花に向かって恫喝をしているのです」
 その言葉をカガチのそばでヨサミは聞いていた。
「花だと……」
「無害なただ野に咲くだけの花を脅して、何の意味があるのですか」クシナーダのその表情には怒りもなく、嘲りもなく、そして誇示もなかった。穏やかな中に、毅然としたものだけが立っていた。「あなたは力があります。わたくしたちをどのようにもできます。好きなだけ手折(たお)ればよいでしょう。お望みなら踏みにじるもよいでしょう。けれど、あなたは決して最終的な勝者にはなれません」
「…………」
「わたくしたちは花。いくら折られ切り取られ、踏みにじられても、季節がめぐれば花はまた咲きます。あなたにはそれを止めることはできません」
 クシナーダはそう言うと、また歩み始めた。里の中央にある柱に向かっていく。彼女の歩みにつれ、彼女を慕う者たちが自然と集まった。
 カガチはクシナーダの近くに佇み、腕組みをしていた。その背中を見、ヨサミはカガチが小さくなったように思えた。気のせいだとは分かっている。だが、このトリカミに来て以来、カガチは圧倒的な鬼神の〝力〟を弱められているようにしか思えない。
 この里に張られている結界のせいなのではないかと、ヨサミは考えていた。巫女としての力の大半を失いながら、それでもこの里が特殊な知恵と〝力〟によって聖域化されているのはわかる。そのためカガチの背負っている〝負の力〟が、否応なく制限されているのではないか。
「皆さん、聞いてください」クシナーダは集まった人たちに向かって語りかけた。「勘のいい方はもうお分かりだと思いますが、このトリカミの里が長きにわたり封印してきたものが解き放たれてしまいました」
 それを聞いたカガチも腕組みを解き、クシナーダを見た。やはりそうなのだと、ヨサミは胸の内だけでうなずいていた。あのとき里を覆っていた濃厚な闇の気配、あれこそがそれなのだ。
「世は滅びるかもしれません」
 しーんとした空気が民たちの間に満ちた。
「しかし、わずかな望みにわたくしは賭けたい。皆さん、力を貸してもらえぬでしょうか」
 静けさが同様に広がっていたが、やがて一人、二人……と前に進み出る者、あるいは立ち上がる者、強い眼で応える者が現れ、それは集まった里人たち全員の意志として結ばれていった。無言のうちに。
「ありがとう、皆さん」クシナーダは言った。「わたくしたちにできることをしなければなりません。確執を越え、憎みを脇に置き、今この里にいる傷ついた者、病んだ者のために力を尽くしてあげてください。そう、オロチの人たちもです」
 里人たちは顔を見合わせ、やはり戸惑いは隠せなかった。
「考えるのではなく動いてください。彼らに憎しみをぶつけたい気持ちは本当によくわかります。わたくしも心の底でカガチに復讐を果たしたいと、そう思う気持ちがあります」
 クシナーダは斜め後ろのカガチを振り返りもしなかったが、里人の視線は当然集まった。
「でも、わたくしたちは知っています。本当の強さとは何か――」
 里人は息を詰めるようにして、彼女の言葉を待った。
「本当の強さとは、人を許せるということ」
 彼女の言葉のヒビキが、里の隅々にまで響き渡るようだった。
「わたくしたちワの民は、長きにわたりこの島国に多くの民を受け入れてきました。確執も争いもありました。けれど、わたくしたちはやがては許しあい、ここで一つになって生きてきた。けれどこの百年、あまりにも大きな流れがいくつもぶつかり合い、このワの国の中で荒れ狂い、その大きな山がここにきてしまった。わたくしたちはこの山を越えることはできないのでしょうか?」
 ヨサミは、クシナーダの言葉をそのときまでただ聞いていた。が、この時に至り、口を開いていた。勝手に声が出てしまっていた。
「越えられないよ」
 その呟きは、静けさの中で予想外の強さで人々の耳に届いた。
「許せなければ越えられないのなら、越えられるはずがない」
 カガチがヨサミを見ていた。そして彼は、クシナーダに向かって冷笑的に言った。「――だそうだが?」
 クシナーダはヨサミのほうへ向き直った。「アナト様よりお伺い致しました。カナンに国を滅ぼされ、ご家族も殺されたと」
「ああ、そうだよ」ヨサミは自分で自分が抑えられなくなっていた。「あんな奴ら、どうやって許せっていうのよ。許せるはずないじゃない! それはこの里の人たちだって同じじゃない!」
 金切声のようになった。が、ヨサミはかつてアナトにぶつけたように、クシナーダにその言葉を激しく投げつけることができなっていた。まともに眼を合わせることができないのだ。
「わたしにはあいつら――カナンのやつらを許すことなどできない。あんたの言っていることはご立派過ぎるよ!」
「立派だとか立派でないとか、そんなことはどうでも良いのです」
「どうでもって――」カッとなりながら、ヨサミは反論すべき言葉を失った。
「人はいついかなる時でも、何を選び何をするか、問われているというだけのことなのです。ヨサミ様、あなたがあえて復讐をという道を選び取るのなら、それはわたくしたちにはいかようにもしがたいこと。わたくしはそれを否定しようとは思いませぬ。それに――」
 クシナーダは何かを見定めようとするかのようにヨサミを見つめていた。ただ静かに。
「ヨサミ様、あなたのお役目もまた貴いもの。誰にでもできるわけではございませぬ」
 ヨサミは何かを投げ返したかった。だが、その言葉は見つからなかった。
 クシナーダはまた里人たちを振り返った。
「わたくしは皆さんに許すことを強要しようとしているのではありません。この今の危機の中で、何を選ぶのかということをお尋ねしているのです。そしてその上でもしお力を貸していただけるなら、今のわたくしたちにできることをしてほしい。ただそれだけのことなのです」
 里人はやはり静まり返っていた。その中から声が湧いた。
「どうして?」スクナだった。「どうしてあたしたちがオロチを助けることが、山を越えることになるの?」
 それは一同の疑問を代弁するようなものであったかもしれない。
「クシナーダ様がやってほしいというのなら」スクナは自分の周囲にいる里人を見まわして続けた。「――する。できるよね、みんな」
 少女の言葉に、大人たちも応えた。うなずき、そしてクシナーダにまた視線を集めた。
「だから、そのわけが知りたい」と、スクナが言った。
「それはね、スクナ、それに皆さん……」クシナーダはにっこりとした。「すれば分かりますよ」

 結局、里人たちはクシナーダの言に従った。
 それはそれだけクシナーダのことが信じられているということでもあった。が、その裏側にはヨサミという存在がむしろ里人を結束させてしまったという効果もあった。彼女が人の想いを背負い、代弁してしまったために、むしろ里人は彼女の立場から距離を置くことができたとさえ言えた。皮肉な結末というよりも、不思議な成り行きというべきだったのかもしれない。
 あの場にヨサミがいなければ、意見は割れた可能性すらあったのだから。
 里人は憎悪や敵愾心を抑え、傷ついたオロチ兵たちを癒し、食事も惜しみなく提供した。洪水で汚れていた川沿いの温泉場は修復と清掃が行われ、兵士たちの身体を温めた。
 それはカガチにとっても、兵たちの気力体力の回復という意味では好都合な出来事であったはずだった。だが、すぐに目に見えた形で兵たちにはある変化が起きた。
「すまない……」と号泣する者も出た。自分たちが踏みにじったトリカミから与えられる行為が、彼らに人間らしい感情を呼び起こしたのだ。
 そして、それはじわじわとトリカミの里人にとっても、残虐な行為を働いた彼らでさえ、やはり同じ人であったのだという認識をあらたにさせた。

 そうして椿の花弁は、一日ごとになくなって行った。
 クシナーダの誕生日から五日目の朝、スクナは巫女たちが囚われる家屋の中の椿が、すべてなくなっているのを確認した。
 今夜だ――。
 配膳を終えたスクナは家を出るとき、クシナーダと眼でうなずき合った。

    2

 半月が中天から少し西に傾いたところにあった。
 スサノヲはエステルの幕屋の外で、その月を仰いでいた。柔らかな月明かりが、凍えるような空気の中、あたりを照らしている。彼はふと幕屋の近くにある樹木に花があることに気付いた。
 椿であった。ふわっとした赤い花弁が、月光を浴びて艶めかしいほど美しかった。優しく、凛とした美しさをそこに感じ、それが彼にクシナーダのことを思い出させた。その時、幕屋からモルデとカーラが出てきた。
「お待たせしました。行きましょう」と、モルデが言った。
 彼らが向かったのは少し離れた場所にあるもう一つ別な大きな幕屋だった。そこでは戦いに勝利した男たちの酒宴が催されており、中に入ると乱痴気騒ぎだった。飛び交う野次のようなだみ声、笑い。食事や酒を給仕している数少ない女たちは現地の娘たちだが、嫌がる彼女らを抱き寄せて口説いている者もいる。
「よう、モルデ。ちっとは元気になったか」
「心配するな。おめーがいなくても、ヤイルがいりゃあ、俺たちは百戦百勝だ」
「なんたって、神様がついておられる」
「おお、今日の予言もすごかった! 奴らの侵攻の時期も場所もぴったりだった。おかげで待ち伏せた我らが大勝利!」
 はっはっは、と笑いがはじける。そんな中を進んで行くと、奥の方にヤイルが座していた。隻眼を光らせ、黙々と酒を口に運んでいた。
「ヤイル、話がある」モルデが言った。
「なんの話だ」ヤイルはモルデの顔も見なかった。
「ヤマトの話だ」
 ふん、とヤイルは鼻で笑った。「またその話か。くだらん……」
「くだらぬことはない。このような戦によらずとも、我らはこの国で暮らしていけるのだぞ。エステル様もそれを善しとされた」
「エステル様が?」
「私の国、ヤマトのことをお話申し上げました」カーラが言った。「エステル様はヤマトへ民を率いて向かうのが最良の策とおっしゃいました。ヤマトは良い土地です。四方を山に囲まれ、豊かな水が流れております」
 ヤイルは酒の器を置くと言った。「そのようなこと、神はお望みではない」
「なんだと?」と、モルデ。
「神が求めておられるのは我らの偽りなき信仰の証しよ。我らはそれを自らの命で証明しなければならぬ。この地を我らの力で平定することでな」
「そのためにどれほどの同胞が犠牲になると思うのだ」
「まあ、座れ」
 ヤイルは隻眼を光らせ、周囲の人間を退かせた。側近たちも敬意を持ってヤイルの指示に従った。今やヤイルはエステルをもしのぐ、絶対的な信を集めているのだった。
「この国は乱れすぎておる」ヤイルは自らの器に酒を注ぎ、そしてほかにも三つの器に酒を注いだ。三人に勧める。「ことに怪しげなまじないや祈祷を行う邪教に心を奪われた者ども、神はこれを一掃し、この地を浄めることをお望みだ。汚れたものは焼き払わねばならぬ。でなければ、神の王国が成就せん」
「そう言っているのか、神は」スサノヲが訊いた。
「おおよ。俺のここに」と、ヤイルは自らの頭を指で叩いた。「囁きかけておられる」
「いつからだ」スサノヲは重ねて尋ねた。「いつからその声が聞こえるようになった」
「ずっと前からだ」
「ずっとといっても、そのようなこと、大陸では一度も言っておらなかったな」と、モルデが指摘した。
「はっきりと聞こえるようになったのだ。ああ、この大戦(おおいくさ)が始まったあたりからな」
「つまりは新月の日ということか」スサノヲは確認した。
「うん? ああ、そのようなものだろう。わが祖先にはかの予言者アモスがおられる。おそらくはこの身に流れる予言者の血にこそ、今ここで神は語りかけられたのだろう」
 満足げに酒を口に運ぶ。その言外には、「エステルではなく」というニュアンスがあからさまなほど含まれていた。
「アモスなら俺も同じ祖先だ。言い伝えによればな」と、モルデは言った。
「同じ血が流れていようが、神は自らの御心に従う者にしか語りかけることはなさらぬ」
「俺も神の御心には従って生きているつもりだったがな」やや自虐的とも取れるような言い方をモルデはした。
「そうかな?」ヤイルは隻眼をモルデに、そして次にカーラに注いだ。「トリカミに潜入させておる密偵から、先ほど知らせがあった。ヤマトの巫女はカガチに殺されたそうだ」
「イスズ様が?!」深甚な衝撃にカーラが声を上げた。瞳孔が開いたようになり、半ばほど開いた口のまま彼は凍り付いていた。
「我らと同じ血を引く者であっても、朱に交われば赤くなる。どうも聞くところによれば、そのイスズという巫女、他のこのワの国の巫女たちと似たような邪教に染まっておるらしいではないか」
「ち、違いまする」カーラが反論したのは、ひと呼吸もふた呼吸も後だった。「我らは真の信仰を捨てたわけではない」
「信じられぬな」嘲笑った。「それならなぜおまえらは巫女などを戴いておるのだ。他のよこしまな神々を信奉する部族となれ合っておるのだ」
「イスズ様は他を否定する必要がないと申されておりました」
「あり得ぬ」ヤイルは断じた。「この世には唯一の神しかおらぬ。ほかを認めるなど、決してあり得ぬ。そのような邪教に堕した者どもの話など、悪魔の誘惑にも等しいわ。その誘いにうかうかと乗るモルデ、おまえの耳に神が囁きかけぬのも道理」
「なにぃ……」モルデの顔色が変わった。
 スサノヲはその肩に手をかけ、モルデを制止した。そして、「ヤイル……なぜトリカミを攻めない?」と訊いた。
「なに?」隻眼がちらっと動いた。
「トリカミにいるカガチの本隊は、今弱っているのではないか。敵の大将がそこにいて、なおかつ手薄な状況だ。普通に考えれば、このカナンの主力を持ってカガチを潰しに行くというのが常道ではないのか。カガチさえ討ち取れば戦は終わる」
 その質問はヤイルの痛いところをついたのは間違いなかった。
「カガチを討ち果たすのは最後の楽しみよ」
「そうしてタジマやコジマの軍勢と一進一退を続けているのか。解せぬ話だな。単なる消耗戦でしかない。時間がたてば、カガチは軍勢を立て直すぞ。キビやヒメジから増援が来るかもしれん。そうなれば不利になる一方だぞ」
「神のご指示がない」むっつりとしてヤイルは、眼をそむけ酒を口に運んだ。
「おまえの神はずいぶんと理不尽な戦術を強要するのだな」
「神の御心は計り知れぬからな」
「怖いのではないか」
「…………」
「あの男が。だとすれば、それを怖がっているのは誰だ? 神か?」
「黙れ!」
 幕屋の喧騒が一瞬にして静まり返るほどの怒声だった。手にしていた器を投げ捨て、ヤイルは立ち上がると脇に置いていた剣を抜いた。女たちから悲鳴が上がる。それをスサノヲに向ける。
「貴様の言うておることは神への侮辱。許さぬぞ」
「そんなつもりはさらさらない」スサノヲは眼を上げて言った。「侮辱を感じておるのは、おまえ自身だろう」
 一触即発の空気が、その場に張りつめた。カナンの兵たちも息を殺すようにして成り行きを見守っていた。
「ヤイル――見せたいものがある」ゆっくりとスサノヲは立ち上がった。そして「ついて来い」と背を向け歩き出した。その場を動かないヤイルを振り返る。「どうした? 不安なら手勢を連れてくればいい。やはり怖いのか」
 憤りをあらわに唸り、ヤイルは歩き出した。剣は鞘に収めず、スサノヲの背後に今まさに斬りつけるような距離でついて行く。モルデやカーラがそれに続き、幕屋にいた何人かも興味を覚えてか、彼らの後を追った。
 スサノヲが導いたのは、先ほどの椿の前だった。
「このような寒い季節にも花が咲く」と、椿の一輪の枝をそっと掌で受けるようにしてスサノヲは言った。「美しいとは思わぬか」
 ヤイルは隻眼を細め、ややあって苦笑めいたものを浮かべた。「何の話だ」
「ヤイル、この花は何色だ」
「赤……」
「この地上に咲く花、他にどんな色がある。おまえは他にどのような色の花を見たことがある」
 答えるのもばかばかしいと思ったのか、ヤイルは沈黙していた。
「白、黄、青、紫……数多くの花を俺はこの地に来るまでに見た。形も色も、香りもそれぞれに異なっていた」
「…………」
「この花を創造したのは?」
「……神だ」
「神はなぜ花を一色(ひといろ)だけにしなかったのだろうな。そして、なぜ多くの形を作ったのだろう」
「…………」
 ――全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです。
 スサノヲの脳裏にクシナーダの言葉がよぎった。
「この世を彩る花にもいろいろなものがあったほうが、神も良いと思われたからであろう。いろいろあるから楽しめる。何もかも同じではつまらぬ――そうは思わぬか」
「何が言いたい……」
「この地上に肌の色や言葉や風習が違う多くの民が存在しているのも花と同じこと。神がそれを善しとされたからだ」
「何を言い出すかと思えば……」ヤイルは嘲笑い、そして手にしていた剣を一閃させた。
 スサノヲの近くで花弁を広げていた一輪が落ちた。
「花と人間は違うわ。我ら以外のすべては、神の道から外れた堕落した民どもよ!」
 どうでも動かぬ、頑迷そのものの傲岸さがヤイルの言葉、表情に滲み出ていた。スサノヲはじりっと片足を前に出しながら、憤りを発して言った。
「花も人も神の創造物に違いあるまい」
「笑止」
「そなたらもこの花のように、ただこの地に根付き、あたり前に咲けばよいだけのこと」ヤイルが切り落とした椿を拾い上げ、スサノヲはそれを突き出した。「なぜ、それがわからん。それが許されるのだぞ」
「我らは神に選ばれた民。同じ花であったとしても、そのあたりの道草に咲く花とはわけが違う」
「同じ命であろう!」
「同じではない。神に仕える我らの価値ある命! 他は無価値な命よ!」
「神を侮辱しているのはお前自身だと知れ! 聞け! そなたたちも!」スサノヲは幕屋からついてきたカナンの兵士たちにも語りかけた。「本来、このワの島国はそなたらのものではなかった。後から来たそなたらは、このワの民たちに受け入れてもらわねばならなかったのだ。それが可能だった。アシナヅチがそう告げたように。だが、そなたらは受け入れてもらう努力ではなく、逆のことをしている。他を否定し、自らの存在を誇示し、他を支配下に置こうとしている! それが間違いの始まりなのだ!」
 いつの間にか、中にいたはずのエステルやカイの姿も幕屋の外にあった。彼女もスサノヲの言葉を聞いていた。
「この花のように、そなたらは切りとる必要のない花々を散らせているのだ。この地の民も、そしてそなたらの命もだ! 半島でいまだ待つそなたらの家族のことを思い出せ! 家族と一緒にこの地で安らかに暮らせるのだぞ! なぜその選択をしない! 共に和となり生きろ! それこそが神の道だ!」
「このような者の言葉にたぶらかされるな!」ヤイルは怒鳴った。「我らは受け入れてもらう必要などない! 我らの主たる神が、すべてを我らに与え給うからだ! 愚昧な者どもは滅ぼしてしまえばよいのだ!」
 スサノヲとヤイルの間に明瞭な殺気が走った。この瞬間、スサノヲの心にもはっきりとした殺意が生じていた。この男を排除しなければ、人は死に続け、悲しみは蔓延し続ける。そのためには――。
 スサノヲはほとんど腰の剣に手を動かしかけていた。実際、抜きたかった。その誘惑は熾烈なものであり、ほとんど抗いがたいものへと一気に高まった。
 ヨモツヒサメから受けたダメージは、まだ回復には程遠かった。が、ヤイル一人を斬り捨てることくらい、できぬ俺ではない――。
 ぴくっと手が動いた。その瞬間にヤイルは反応して剣を構えた。
 が、スサノヲはその自分の手に先ほど拾った椿があることを意識し、その一輪が彼を思いとどまらせた。クシナーダの面影がふっと脳裏をよぎる。やめて、と彼女が声なき声で言ったように思えた。
 危ういところでスサノヲは殺気を体内から追い払った。背筋に冷たいものが走る。それは隙あらば付け込もうとするヨモツヒサメの気配だった。ヤイルに向けて踏み出していた足を引く。
 ふうーっという吐息と共にヤイルも剣を引いた。
「よけいな口出しは無用。邪魔をするなら、いかにお前でも容赦はしない」ヤイルは踵を返し、自分がいた幕屋のほうへ向かった。通りすがりに右の隻眼がエステルを捉えたはずだが、臣下の礼も取らず、足早に去る。部下たちに「座興は終わりだ。さあ、呑み直しだ!」と声をかける。
「すべてはわたしの責任だ」近づいてきてエステルは重い口を開いた。月光に照らされることで、やつれたその顔の頬がよけいに落ちているように見えた。「すまない、スサノヲ」
「俺よりも、カーラや亡くなったイスズという巫女に詫びるべきだろう」
「亡くなった? イスズという者は亡くなったのか」
「カガチに殺されたそうだ」
「イスズ様は後からきっとこの地に到来する仲間を、命かけてお導きするお心積もりでした。モルデ様を逃がすために、きっと身を挺されたのだと思います」
 モルデも沈痛な面持ちだった。それを見てエステルは、さらに濃い苦渋をにじませた。
「すまない、カーラ」
 カーラは俯いていたが、「いえ」と顔を上げた。「エステル様、それにスサノヲ様、私は一度トリカミに戻ります。イスズ様はこれより後、私はアナト様にお仕えするよう命じられました。きっとイスズ様は深いお考えあって、そのように命じられたはず」
「そうだな。トリカミに囚われている巫女たちのことも気になる」そう言いながら、スサノヲも自分が戻りたいほどだった。だが――。
「場合によっては、命に代えてお助けいたします。途中で会ったイタケル様やニギヒ様ともそのようなお話を致しました」
「頼む……」
 カーラは頭を下げると、すぐにその場を離れた。歩み去っていくというよりも、風のように消えた印象だった。
「エステル様、ここはお寒うございます。兄さんも、みんな、中に入って話そう」と、カイが言った。
 エステルもモルデも、幕屋の中へ引き上げていく。スサノヲもそれに続きかけ、一度足を止めた。振り返った夜空の月は、すでに西へ沈みかけていた。
「サルタヒコ……見ているのだろう」スサノヲは空に向かって言った。「俺にここで何をさせたいのだ。ヤイルを打ち倒せというのか」
 夜空は沈黙したままだった。
「教えてくれ」
 羽音もなく、風の音だけが聞こえていた。

    3

 夕方、いつものように巫女たちに食事を運ぶと、スクナは家屋を出てきた。
「ご苦労さん」と見張りの兵が声をかけてくる。以前にはなかった気安さだった。それに対してスクナは、にっこり笑顔を返した。
「おじさんたちのも、すぐに持ってくるから」
「ああ、頼むよ」
 イスズが抜け出して以来、見張りの兵は増員され、五人になっている。しかし、彼らはトリカミの里人たちが仲間の傷病者たちの回復のために働いたことで、かなり気を許すようになっていた。その見張りが交替するのは夜半――時間はたっぷりとあったが、問題はタイミングだった。
 スクナは、夕餉に集まる里人たちのところへ戻ると、作られた食事を五人分、別な土鍋に分けてもらった。それをあらためて火にかけ、乾燥した植物の葉をそれに加えて煮た。日が暮れて行くのを見つめる彼女の眼は、里人の中にこっそりと紛れ込んだイタケル、オシヲの姿を確認した。夕闇が濃くなってきたので、抜け道から入り込んできたのだ。
 トリカミの里自体、かなり広範な土地である。主だった道筋にはオロチ軍の兵が警備しているが、至るところに隙間がある。里人にとってはこっそり出入りすることは難しくなかった。
「どうだ?」イタケルは近寄ってきて言った。
「大丈夫。二人はあれ持って、ついてきて」
 スクナに言われて、イタケルとオシヲは用意されていた薪や枯葉などを担いだ。すべての段取りは、スクナによってなされていた。
 スクナが食事を運んでいくと腹を空かせていた見張り兵は嬉々としたが、ついてきたイタケルとオシヲが荷物を下ろすのを不審げに見ていた。
「ねえ、ここで焚火してもいい?」と、スクナが訊く。
「あ、ああ」彼らは顔を見合わせた。
「栗を焼くんだ。巫女様たちに差し上げたいし、おじさんたちも食べるでしょう?」
「ああ、そういうことなら」「この寒さだ。むしろ大歓迎だ」などと、兵たちは笑顔になった。イタケルとオシヲが荷物を置くと去って行ったので、彼らはよけいに気を許した。
 篝火から種火をもらうと、集めた枯葉はすぐに燃え上がった。小枝、そして大きめの薪という順で火を大きくしていく。その間に兵士たちは焚火のまわりで暖を取りながら食事をし、談笑した。
「俺たちの里でも、栗は冬の間の大事な食糧だからなあ」
「あのバチバチ弾ける音がたまんねえよ」
「いや、楽しみだ。ここの里の栗は実が大きい」
 炎を大きさを見て、スクナは乾燥した植物の束を放り込んだ。
「なんだ、そりゃ」と尋ねる兵士。そのときには、すでに頭がぐらぐら揺れていた。
「これを燃やすと良い灰ができてね、栗がうまい具合に焼けるの」
「へえ~、なんて草だ」
 スクナは答えたが、彼らが覚えることはなかっただろう。もうもうと上がる煙が、風にまかれて彼らの気管に吸い込まれた。スクナは息を止めたり、風上に回ったりするなどして、煙を吸い込まないようにしていた。
 もはや立っていられる者はいなかった。
 すでにあたりは闇が濃厚で、半月の月明かりだけが頼りだった。この異変に気づく者もいない。
「ごめんね」と、スクナは兵士たちに詫びた。

 その夜、クシナーダは他の巫女たちにいつでも抜け出せるように身支度を整えさせていた。
「クシナーダ様、本当にここを出られるのでしょうか」アナトが尋ねた。
 その問いにもクシナーダは笑顔で応えた。「スクナが必ず迎えに来ます」
「あのような子供がいったいどのようにして……」
 戸板を叩く音がしたのはその時だった。動かされた戸口の隙間から覗いたのは、そのスクナの顔だった。
「来たよ、クシナーダ様」悪戯っ子みたいな笑顔でスクナが囁く。
 巫女たちは唖然として顔を見合わせた。
「さあ、行きましょう」クシナーダが呼びかけ、彼女らは外に出ていく。
「あ、あの女性(ひと)は……」と、スクナは動こうとしない一人の巫女を目に留めて言った。
「良いのです。行きましょう」クシナーダがやんわりと肩を押す。
 そのクシナーダは家屋を出るとき、残った女性に対して深々と頭を下げた。女性もこうべを垂れていた。スクナはクシナーダの表情に悲しみとも苦しみともつかぬものが浮かんでいるのを見た。
 外に出た巫女たちは、寝転んだりしゃがみこんだりしている見張りの兵士たちの姿に驚き、立ちすくんだ。寝ている――と思ったら、かならずしもそうではない。彼らはぐらぐら頭や体を揺らし、まるで酒に泥酔して酩酊しているような状態だった。巫女たちを見てもにやにや笑い、自分の妻の名前を呼んだりしている。
「また、お酒を――?」と、アナトは尋ねた。
 しかし、前回イスズが抜け出したときのことがあるので、兵士たちに同じ手が通用したとは思えない。
「夕餉に、ちょっとね。それにあの煙も吸わせたから」
 巫女たちが囚われていた家屋の近くには、まだ煙を立ち上らせている焚火があった。
「あの煙を吸わないようにね」と、スクナは警告した。
 巫女たちは慌てて袖で口をふさいだ。
「スクナは様々な薬草の効用とその知識に長けているのです」クシナーダは説明し、スクナの肩に手をかけた。「ありがとうね。スクナだったらきっとなんとかしてくれると信じていました」
 えへ、とスクナが笑う。そこへイタケルとオシヲが走ってやってきた。
「イタケル、オシヲ……よく無事で」クシナーダは感嘆をにじませた。
「行こう。ぐずぐずしていたら気づかれる」と、イタケル。
「西の磐座のところでニギヒ様と、ニギヒ様の部下が集まってる」と、オシヲ。
 イタケルたちの導きを受け、巫女たちは夜陰に紛れ、里を抜けて行った。その姿をこっそり家屋の中から見ている里人たちもいることに、クシナーダは気づいていた。彼らは今宵の企てを知っていて、皆、クシナーダたちが無事に脱出できることを祈っている。いや、もしほかの兵士たちに察知されるようなことがあれば、身を挺してでも守ろうとしているということが伝わってきた。
 彼らの祈りと期待が、夜の大気を通じて流れ込んでくる。
 ――これでは、もしかしたら……。
 クシナーダは危惧を抱いた。
 西の磐座は斐伊川にもっとも近い、里の境界線になっている場所だ。里を聖域化している結界の要ともなる機能を有している巨岩の一つだ。そこが近づくと住居もなくなり、森の茂みも深くなってくる。
 明かりも使わず、沈みかけた月明かりだけを頼りに移動できるのは、地理を熟知しているからこそだった。里の周囲を警戒する兵士たちの場所もスクナが事前に調べていた。彼女しか知らないような抜け道を使い、隙間を縫うようにして移動する。
「大丈夫ですか、ナオヒ様」と、クシナーダは小声で気遣った。
「年寄りにはきついわい……」ナオヒはさすがに息が上がっていた。
「もう少しですから頑張ってくださいね」
「年寄りを鞭打つ、お優しい言葉じゃな」
 磐座が月明かりの中にシルエットで見えた。すでに兵士たちの包囲の外である。
 巨岩の周囲にはニギヒと招集をかけられた配下たちが待機していた。屈強な男たちの存在は、巫女たちを安堵させた。
「クシナーダ様、それにナオヒ様、ご無事で何よりです」ニギヒが言った。
「言った通り、なかなかしぶといじゃろ?」と、からかうようにナオヒが言った。
 そのときまで、彼らのだれも気配を察知することはなかった。いつの間にかそばに来ていた人影が声を発することで、彼らは飛び上がるほど驚かされた。
「皆様……」その男は、カーラだった。
 彼は食い入るように凝視し、巫女たちの顔をゆっくりと確認して行った。その中に彼の主であった女性の貴い姿がないことを、あらためて確認するように――。
 その眼に涙が滲み、口はへの字に歪んだ。
「なんなりとお申し付けください」
 彼がそう言って膝を折ったのはアナトの前だった。


「カガチ様!」イオリの取り乱した声が響いたのは、それからしばらく後のことだった。
 カガチは祭殿の一角で、ヨサミに給仕させ、酒を呑んでいた。
「巫女どもが逃げました! み、見張りがおかしなもので眠らされッ――」血相を変えてやってきたイオリは、報告を聞いて眉一つ動かさないカガチに、一瞬、言葉を詰まらせた。「す、すでに追手をかけております。すぐに見つけ出し――」
「捨て置け」ぼそりとカガチは言った。
「は?」
「捨て置けと言った」
「い、いや、しかし」
「あの巫女どもも、もはや用済み。連れて歩いても足手まといなだけ」
「は、はあ」イオリはカガチの真意を測りかねていた。怒り狂ったカガチに殺されるかもしれない覚悟で来たのに拍子抜けしたというのもあろうし、何よりもどっと安堵したためか、真っ青だった顔に血の気が戻ってきた。
「道草の花、むしり取ったところでもはや何の益にもならぬわ。のう、そうであろうが、ヨサミ」
 話を振られ、ヨサミは黙って見つめ返した。
「あ、ああ、あの、しかし、カガチ様」イオリはさらに顔色を窺いながら続けた。「ただ、一人だけ、巫女が残っております」
「なに?」カガチはむしろそのことに驚きに打たれたように反応した。
「アカルが残っております。一人……」
「アカルが?」
「は、はい」
「呼んでまいれ」
「わかりました!」
 部屋を飛び出して行こうとするイオリを、カガチは今一度呼び止めた。
「イオリ、心しておけ。我らは明日、ここを出立する」
「え? イズモに進軍されるのですか」
「タジマのミカソらと合流する。そしてカナンとの最後の戦いに備える。よけいなことに気を回さず、兵たちもゆっくり休ませておけ。よいか」
「は、はい。しかし、このトリカミや動けない傷病兵はいかがなされます」
「この地はもはやどうでも良い。守備兵も残さぬ。動けぬ者はここに残す。わかったな」
「は!」イオリは頭を下げ、その場を足早に去って行った。
 その足音が聞こえなくなった頃、ヨサミは言った。「お気づきだったのですか」
「おまえがくれた〝力〟だろう。今夜、おかしな気配があるのは感じておった。イスズが抜け出したときと同じようなものだ」
「なのに見逃された……」
 カガチは酒を呷った。「……俺も馬鹿ではない。クシナーダが言うには、この里が封印してきた〝力〟は解き放たれた。アカルにせよ、キビの巫女どもにせよ、このトリカミを禁忌としてきたのはそれが理由であろう。しかし、その禁忌が破られたとあれば、巫女どもが俺の言うことに従う理由はなくなる。半分はな」
「半分?」
「ことキビからはクロガネ作りのためという名目で、多くの者をタジマやイナバに人質に取っている。それが残り半分。おっと――お前の国からも取っていたな」
 ヨサミはそのことには何も返さず、ただカガチの手の中の器に酒を注いだ。そのことは今言われるまで、ヨサミ自身、ろくに思い出しもしなかったことだった。いや、考えるのを避けていたのかもしれない。タジマにはヨサミの従兄に当たる人物も人質に取られていた。
「キビから徴収した兵士たちも、洪水でほとんど死ぬか、動けぬ状態だ。このような有様に至り、キビの巫女たちが俺から離れようとするのは必定であろう」
「なぜ、お見逃しになったのですか」
「この戦が終われば、カナンという最大の邪魔者はいなくなる。キビにしてもこの戦に兵力の大半を差し出した」
「つまり弱体化したキビなどいかようにもできると? 巫女を人質にする必要もない……」
「そういうことだ。幸いにも洪水で損失したのはキビとヒメジなどから集めた兵力がほとんど。タジマの本隊はカナンの東に温存されておる」
 たしかにカガチの支配するタジマの主力は、まだ残されているのだった。ある意味、カガチには現状でさえ好都合なのかもしれなかった。
「封印されしものが解き放たれたのなら、もはやこの里の巫女を盾にとっても、あいつらを意のままにすることは難しかろうしな」カガチはまた酒を口に運んだ。「俺にとっても手元に置いておく価値がなくなったということだ」
 しかし――。
 それだけだろうか、とヨサミは考えた。以前のカガチならクシナーダを含む巫女すべてを殺してしまい、もしそれでこの里人たちが反感を抱くなら、この里すべてを滅ぼしただろう。言葉の上では微妙な違いでしかないようだが、よくよく突き詰めれば彼の変容はきわめて不可解なものに思えた。彼自身、言葉にしたような理由で自分を納得させているようにも聞こえる。
「しかし、となれば、問題はタジマやイナバにおるキビの奴隷どもだ。あの巫女どもはそれをなんとかしたいはず……」
 カガチが独り言(ご)つのも、ヨサミには筋が通ってないように思えた。ならば、よけいにキビの巫女たちを捉え、動きを封じなければならないはず。
「そうか……読めた」カガチはふっと笑った。
 そのときイオリがアカルを連行して戻ってきた。その彼にカガチはすぐに告げた。
「イオリ、コジマ軍の動きに注意しろ」
「え? コジマですか」
「コジマはカナンの北側に侵攻しておるな」
「はい。現在は意宇の湖(おうのうみ)を挟んだ場所に陣を張っております」※意宇の湖=現・宍道湖
「すぐに使いを出し、反乱の動きがないか、タジマの水軍に見張らせろ。妙な動きをするようなら討て。コジマ内に潜らせている密偵にも伝えておけ」
「わかりました」
 カガチは顎を動かし、イオリを追い払った。その場にはアカルとカガチ、そしてヨサミだけが残された。
「なぜ逃げなかった」
 そう問いかけるカガチに、アカルは伏し目がちのまま応えた。
「わたしはタジマの巫女。わたしがいなくては、軍の統率に影響が出ましょう」
「笑わせるな……。キビなどと違い、タジマは俺が直接支配しておる地だ。お前がいようがいまいが、影響はない」
「十六年前のあの日より、ずっとあなたのことを見てまいりました」アカルは眼を上げ、カガチをまっすぐに見た。そして、彼の前に跪いた。「どうか、最後までおそばにいさせてください」
 その姿と言葉は、ヨサミに激しい嫉妬を掻き立てさせた。自分が顔色を失っているのがわかる。
「どういう風の吹き回しだ」
「わたしの命はもう長くありませぬ」
「…………」
「わたしはあの日、あなたの命を救いました。その時の借りを返していただきとうございます」
「借りと言うか」
「はい。なれば、どうか最後までわたしに事の成り行きを見届けさせてください。それがわたしの最後の望みです」
「そんなことのために、一人残ったのか」
「そんなこと、ではありませぬ。そのことのためにだけ、わたしは生きてきたのです」
 アカルの青白い額のあたりから、なにか鋭いものが立ち上っていた。ヨサミはめまいを覚えた。アカルの思いつめた、必死な何かに、圧倒されながら、同時に嫉妬もし、そしてさらに――。
 憧れさえ覚えた。
「よかろう」カガチはそう言い、無表情に酒を呑んだ。

    4

「二十人……たったそれだけなのか」その数を聞き、モルデは愕然と呻いた。
 すとんと、力なく腰を落とす。信じられない、というように視線が足元をさまよっている。その姿を誰よりも苦しげに見つめているのはエステルだった。
 二十人――それはエステルらと共に戦いを放棄し、ヤマトへ移民する手段を選ぶ者たちの数だった。カイやシモン、ヤコブらの水面下での活動で、その根回しは行われた。が、驚くほど同調者は少なかったのだ。それはそのままエステルの求心力がなくなってしまったことの証明だった。
「この短い間にヤイルはなぜここまで……」モルデはつぶやいた。
 沈黙があった。カイ、そしてシモンやヤコブには、思い当たることがあるようだった。スサノヲはそれに気づいていたが、ただエステルのほうを見つめていた。秋にトリカミの里に現れた彼女と同一人物とは思われないほど、エステルは弱くなっていた。まったく雰囲気が違うのだ。あのときの誇り高く、猛々しい王女のオーラは、今は微塵もない。傷ついた小動物のようだ。
「エステル」他に口火を切る者がいないと知り、スサノヲは言った。「何があった」
 声をかけられ、ただそれだけでエステルはぶるっと震えた。右手で自分の左腕をつかみ、そしてしばらく硬直していた。
「皆、聞いてくれ」やがてエステルは顔を歪め、血を吐くように言った。「軽蔑してくれても構わない。わたしは……怖くなったのだ」
「エステル様……」モルデは衝撃を受け、言葉を失った。
「あのカヤを滅ぼしたとき、憎しみに満ちた眼でわたしを見つめながら、舟で川を下って行く巫女がいた……。あのとき、わたしは本当は……自らの行いに寒気を覚えていた。あの眼が……忘れようとしても、どうしても忘れられぬ!」
 これまで封印していた想いが、最後には叫びとなって響いた。モルデ、そしてカーラなどの話をつなげるなら、それはヨサミというカヤの生き残りに違いなかった。
「あの巫女は叫んでいた。『お父様お母様』と……。それからしばらくして、あの男が……カガチがカヤを奪還しに来た。あの化け物のような男が……わたしは、あの巫女の怨念が、あの男となって現れたように思った」
 その認識もまた正しいのかもしれなかった。ヨサミはカガチの愛妾となっている。
「あのような怪物を……わたしは大陸でも見たことがなかった。鬼……カガチは本物の鬼だ……。恐ろしかった……どこまでも追いかけて、わたしのはらわたを食らうと言った。あのときの恐怖が今もこの身からは消えぬ……」
 エステルは一言一言を苦しげに紡ぎ出した。言葉を発するたびに、自らのプライドを自ら捨てて足で踏みにじるようなものだったろう。
「その後のことはカイやシモン、ヤコブらはよく知っている……。わたしがあの男に怯え、臆病になり、勇気を失ったことを……。わたしがそのような有様だ。兵たちの士気も下がるのは道理……。今、このようにカナンが追い詰められているのも、すべて、わたしのせいだ」
 スサノヲには想像ができた。カナンの民はもともと父権的な意識が非常に強く、神も〝父なる神〟である。女性が頭に立つことなど、ほとんどありえない民なのだ。それを可能ならしめていたのは、王家の血筋であったろうし、エフライムの存命中から非常に強い指導力を彼女が発揮してきたからだ。
 だが、その強い意志が彼女から失われてしまったとすれば――。
 カナンの民の忠誠は、たちまち脆くなったのではないだろうか。そして、そんなカナンの民が次に求めたのは……。
「そんなとき、ヤイルが神がかった……。突然のことだった。が、大水でカガチが率いる軍が滅びるというヤイルの予言は的中した。民たちはヤイルを自分たちに与えられた、あらたな予言者と信じた」
「そうして一気にヤイルの元へ信が集まったということか」
 スサノヲが呟いた後、すぐにカイが叫ぶように擁護した。
「エステル様はずっと、お体の具合も良くなかったのです! それもあってのことなのです。食事もあまり受け付けられず、弱っておられたのです!」
 それを聞き、スサノヲは眼を細め、エステルの姿をまじまじと見つめた。
「エステル……おまえは子を宿しているのではないか」
 え! と大きな驚きを発したのはモルデだった。が、カイらは内心では考えていたことのようで、過剰な反応はなかった。むしろエステルの顔色を窺っていた。
 自分の身体を抱きしめるようにしていたエステルは、やがてそっと自分の腹部に手を置いた。
「ほ……本当なのですか、エステル様」モルデは顎の関節が外れてしまったようになっていた。
「すまない、モルデ……キビから帰ってきたら話そうと思っていた」
「では、あのとき言われていたのは……」
 二人のやり取り、そしてカイらの様子からスサノヲは、それがモルデとの子なのだと知った。そして、ようやく疑念が氷解するのを感じた。
 エステルはかつての軍神のような女ではなくなっていた。
 母になっていたのだ。
 それが今の彼女に感じていた違和感の正体だったのだ。
「わたしは知った」モルデのことを見つめ返すエステルの眼にはうるんだものがあった。「子を宿し、初めて思ったのだ。この子が愛おしいと。この子を守りたいと。そうしたら、自分のことが怖くなった……。多くの者を殺めた自分のことが……。わたしは、あの鬼と変わらぬ……。殺してきた者たちにも、同じように母がおったろうに! あの巫女にも!」
 ぼたっ、ぼたっ、とエステルの涙が零れ落ち、足元で音を立てた。
「そう……だったのですか」
 人目を気にする思いもあっただろうが、モルデは近づき、エステルの肩に手を置いた。エステルもまた彼にしがみついた。そして嗚咽を漏らした。

 そうしてその日が暮れた。スサノヲはエステルの幕屋の一角に、モルデと共に臥所を与えられていた。
 月も没し、夜闇が濃くなった頃、モルデがやって来た。
「落ち着いたか」と、スサノヲは仰向けに寝たまま言った。
「まだ、起きていたのですか」音を忍ばせて入ってきたモルデが驚いたように言った。
「エステルは大丈夫か」
「ええ、もう落ち着かれました」そう言いながら、モルデが臥所に入る。
「この戦は収まらぬ」スサノヲは開いた眼を上に向けたまま言った。「もう滝の水のように流れ落ちて行くだけだ。志を同じくする者だけでも集め、おまえたちはヤマトを目指すべきだ」
「明日、同道する者に声をかけてみるつもりです。そして、明日の夜にでもここをひそかに抜け出す……」
「その後は? 半島に戻るのか」
「そうなるでしょう。半島に残ったカナンの民たちは多い。それを引き連れ、ヤマトを目指します。ただ……」
「ただ?」
「それで良いのかと、エステル様は悩んでおられます」
 スサノヲは半身を起こした。「どういうことだ?」
「これだけの戦乱を起こした責任を感じておられるのです。ここにいるカナンの民にも、そしてこの島国の民にも」
「…………」
「スサノヲ様は、今さら何を言うと思われるでしょう。しかし、俺も同じ気持ちです。このような状況で、自分たちだけが安全な場所へ脱げこむような卑怯なまねはできない。だから俺は残ります。エステル様は半島に避難していただくが……」
「エステルは納得すまい。おまえは腹の子の父なのだろう」
 沈黙は苦しげさえ思えた。
「あの分ではヤイルは決して矛を収めまい。カガチにしても同じだ」
「そうだ……スサノヲ様」思い出したようにモルデが言った。「あのカガチという男は、あなたの剣を持っていました。あのスサで、あなたが持っていた剣です」
「なに?」
「見間違えようがありません。あなたの剣は独特な形をしている」
「そういうことだったのか……」
 モルデも身を起こしていた。「あれはただの剣ではないのですね」
 スサノヲはうなずいた。
 あの剣は彼のエネルギーそのものである。天界から分かたれたスサノヲの大元の光の一部を、剣という形で結晶化させたものだ。ネの世界に降り立った直後だったからこそ、それが可能だったのだ。彼自身、まだすべて物質化していなかったような状況で、その一部を武器に変えたのだ。それが必要とされる状況だったがために。
「あれは当たり前の人間が持つのは危険すぎる代物だ」
「まさかカガチが鬼になったというのも……」
「たぶん剣の〝力〟のせい……」スサノヲは言葉を切り、小さく「シッ」と指を口に当てた。
 気配が動いていた。
 スサノヲは剣を取り、無音で立ち上がった。幕屋の外の篝火が爆ぜる音がする。そして風の音。それに混じって、金物が触れる音が聞こえ始めた。もちろんほんのわずかなものだが、そのときになってようやくモルデもはっとなり、剣を手にした。
 臥所を抜け出して行く。今や明瞭な殺気が彼らを押し包んでいた。
 幕屋の中の布がかすかに揺れた。と、次の瞬間、剣を振りかざした男が布を切り裂きながら突っ込んできた。スサノヲは抜刀し、その剣を弾き返した。
「モルデ! エステルのところへ行け!」
 おお、とモルデは雄叫びとも応えともつかぬ声を上げ、走り出した。
 敵は一人ではなかった。スサノヲは次々に現れる男たちの攻撃をかわし、受け、足で蹴っ飛ばした。吹っ飛ばされた男が転がり、二、三人の足をすくった。
 その隙にスサノヲもエステルの元へと走った。
 もっとも奥にあるエステルの臥所に辿り着くまでに、カイたちが襲われているのに遭遇する。すでにヤコブは喉を切り裂かれ。そこで絶命していた。カイとシモンも、上からのしかかられ、今まさに剣を突き立てられようとするところだった。
 スサノヲは剣を振りかざす男に肩から猛然と当たり、二人まとめて吹っ飛ばした。
「大丈夫か! 立て!」叫ぶ。
 寝こみを襲われてなす術もなかったカイらも、ようやく剣を手にして応戦する構えを見せた。そのとき戻ってきたモルデが叫んだ。
「エステル様の幕屋ぞ! 貴様ら、何をやっているのかわかっているのか!」
 彼はエステルを連れていた。モルデの言葉とエステルの姿は、彼らにわずかな怯みを作った。
「切り開くぞ!」
 言下にスサノヲは前に出た。後に続くカイたちには、スサノヲが何をやっているのか、ろくに見えなかっただろう。あまりにも動きが早く、彼が近づくたびに自動的に兵士たちがもんどりうって倒れて行くようにしか思えなかっただろう。脚で蹴り飛ばし、肘を入れ、剣の側面で打つ。
 幕屋を出た彼らが見たのは、そこに群がるカナンの民たちであった。
 皆、武装し、殺意をむき出しにしていた。
 その背後には、背高いヤイルの姿もあった。
「乱心したか、ヤイル!」モルデが叫んだ。
 ヤイルの顔に傲然とした笑いが浮かんだ。「乱心はどちらかな」
「なんだと」
「困りますな、エステル様。王家の血筋と思えばこそ、お立てしてまいりましたのに。この期に及んで、兵たちを連れて半島に戻るなど、愚の骨頂。勝利は目前だというのに、兵たちの士気が下がりまする」
 カイたちの工作が気取られていたのだった。いや、多く者に声をかければ、ヤイルに伝わらないはずはない。もともとその危険は冒しての工作だったのだ。しかし、よもやヤイルがエステルに剣を向けるとは、だれも想像していなかったのである。
 スサノヲは考えが浅かったことに気づかされていた。半島に残している民は、ヤイルにとって重要な財産だ。人としての資源なのだ。もしエステルがそれを根こそぎ奪い、ヤマトへ移住してしまったら……。
 その想定がヤイルを暴挙に走らせたのだ。
「神のご意志こそが絶対。それに背く者は、たとえ王であろうと罪は免れぬ。やれ!」
 ヤイルの号令と共に、雪崩を打って兵士たちは襲いかかってきた。
 その瞬間であった。エステルの蒼ざめた顔。モルデの叫び。カイやシモンの絶望。それらすべてがスサノヲの認識の中に飛び込んできて、一つ一つが鮮明な映像となって脳裏に焼き付いた。と同時、彼は悟っていた。
 ――守るためだ。
 裂帛の気合いと共に、スサノヲの剣が振るわれた。〝気〟が高潮のように迸り、押し寄せる兵たちを打ち据え、跳ね除けた。
「こっちだ!」スサノヲは叫び、再び剣圧で活路を開いた。
 モルデ、エステル、カイ、シモンらは崩れた囲みの一角を風のように走り抜けた。彼らを先に行かせると、スサノヲは自らがしんがりに回った。
 度肝を抜かれた兵士たちが態勢を立て直し、追いすがろうとする。それを彼は止めた。目まぐるしく襲い掛かってくる剣を、槍を。
「俺は守るためにここにいる!」息継ぎをする暇もないほどの攻防の中、スサノヲは叫んだ。「サルタヒコ! 俺は守ることに決めた!」
 ヤイルの号令で弓矢が放たれた。十を超える飛来する矢を、斜めに振り上げ、そして振り下ろす稲妻の如き太刀筋で薙ぎ払う。
「文句あるまい!」
 かつてない熱いものが滾るのを感じた。自らに与えられた力――スサノヲはそれが何のためにあるのかを知った。いや、自ら決めたのだ。
 その答えは彼を満足させるものだった。生きてここにある。そのたった今の意味。
 命の使い方。
 そんな言葉のピースが、バラバラに飛んできて、彼の中でぴったり枠の中に収まった。
 ――わたくしは決めてございます。
 ――そのようなことは自分で決めよ。
 彼の脳裏にクシナーダと母・イナザミの言葉がよみがえっていた。

「いよいよでございますな、サルタヒコ様」
 ウズメの言葉に、サルタヒコはうむとうなずいた。
 彼らは騒乱から離れた場所にある大きな松の梢にいた。そして、スサノヲの動きを見守っていた。俊敏な身のこなしは縦横無尽に変化し、敵の攻撃をことごとく退けた。
「まっこと、猛々しい踊りじゃ」と、ウズメが感嘆する。
「しかし、一人も殺しておらぬぞ」
 スサノヲはただ一人の敵も斬り捨ててはいなかった。巧妙な打撃を与えて、行動する力を奪っていく。
「面白きやつ……」ウズメはくすくす笑った。

 雪がまた降り始めていた。

    5

 トリカミを発ったカガチは、見る影もないほど少なくなった軍勢を引き連れ、意宇(おう)を目指した。(現・松江市を中心とする地域)
 その地はちょうど中海と意宇の湖(おうのうみ)の結節点となっており、東から侵攻したタジマを中心とするオロチ軍は、中海沿岸のカナンを退け、現在はそこに陣を張っていた。しかし、不可解な勢いを取り戻したカナン軍によって、さらに西への侵攻は食い止められていた。指揮しているのは、カガチの腹心であるミカソだった。
 このミカソの本隊と合流するために、カガチは一度斐伊川に沿って北へ向かい、カナンの勢力圏に接近しすぎる前に北東へ進路を取った。意宇へ向かう道筋は、主に二つあったが、カナンの勢力から距離を置く東寄りのルートは山越えが険しく、やや迂回するものとなる。そのためカガチは、多少の危険はあっても、最短で意宇にたどり着く西寄りのルートを選んだ。
 ところが――。
 この道行は当初予想されたものより、はるかに厳しいものとなった。未明から降り始めた雪が、一行の足を阻んだのである。出立したころはさほどのものではなかった。が、たちまちそれは豪雪と言えるほどのものへと変貌し、視野と体力を奪い、足を取らせるものとなった。
 前新月の侵攻時の雪とはけた違いだった。山野はみるみる真っ白に染まり、分厚い積雪は川沿いの道のありかさえわからなくした。兵たちは足を滑らせ、深みにはまり、転び、ひどいときに川に落ちたり、斜面を滑り落ちたりした。
 ヨサミとアカルはそれぞれ輿に載せて運ばせていたが、カガチは彼女らのことを考慮して、一気に踏破することは避けた。峠を越える手前で一夜を明かすことに決め、山あいにあった集落に強制的に宿を求めた。

 そのカガチたちにやや遅れて、クシナーダたちも同じ道筋をたどっていた。ただしカガチたちに気取られぬために、川の対岸である西寄りの道を歩んでいた。そして、巫女たちにとってもそれは想像を絶する苦行を強いるものとなっていた。
 ――ハハハ。
 女の狂ったような笑い声が、吹雪の音に混じって響いてくるように思える。それは、巫女たちにとっては錯覚などではなかった。その嬌声は跳梁するヨモツヒサメたちが放つものだ。この世を憎悪や破壊、死や絶望などによって塗りつぶしていく歓喜の笑いである。
「いやな声……」ナツソが耳をふさぐようにして言った。
 他の巫女たちも同感の意を表したかっただろうが、今はそれどころではなかった。場所によっては膝まで埋まるような雪を押しのけ、あるいは雪に埋まった足を持ち上げ、降りしきる豪雪に視野もろくに得られない山道を歩く消耗はただならのものがあった。
 体力は根こそぎ奪われ、冷え切った身体が動くことさえ拒み始める。老体のナオヒはニギヒの配下の屈強な男たちが交替で背負っているが、彼らでさえ音を上げたいという想いが顔色に見え始めた。
「カガチたちはこの先の集落で一夜を明かす様子だ」という知らせを持ってニギヒの配下のひとりが戻ってきたとき、クシナーダは一同を近くの杜(もり)に誘(いざな)った。
 その辺一帯は、比較的なだらかな丘陵が目立つ地帯で、その谷間に集落があった。むろん集落はカガチたちが宿として強制使用したため、近づくことはできない。クシナーダが導いたのは、その集落の民たちが神域としている杜だった。
「ここは……トリカミ周辺にある聖域の一つです。ここならば、ヨモツヒサメたちもよりつけませんから……安全です」
 到着したとき、クシナーダも説明するのがやっとという状態だった。
 杜には小屋があり、そこには薪なども常備されていた。岩戸の聖域がそうであったように、トリカミ周辺にはこのような場所が至る所にあった。
 イタケルとオシヲ、スクナ、それにニギヒとその配下たちを加え、総勢で二十名ほど。火が燃やされ、狭い小屋の中に人がすし詰めになると、それだけで生き返ったような心地に誰もがなった。事前にイタケルたちがトリカミから持ち出していた食料が調理され、出来上がるころにイズミが思い出したように言った。
「あのカーラという男は、無事にコジマの陣に辿りつけただろうか……」
 それは独り言のような呟きだったが、そばにいたアナトが応えた。
「きっと、大丈夫です」
 イスズという絶対的な主人を失ったカーラは、彼女の最後の命に従い、アナトの従者となった。キビの人質たちを救出するためには、ナツソが巫女として立つコジマ水軍にじかに連絡を取らねばならなかった。そのことを言い含め、アナトはカーラを送り出したのだ。
「わたしたちはもう後戻りはできませんね」ナツソが自分の身を抱くようにして言った。「わかってはいるのですが、とても怖いです」
 沈黙が落ちた。その重さを払うように、イタケルがわざとらしい大きな声を上げた。
「さあ、栗が焼けたぜ! 食おうぜ!」
「皆さん、頂きましょう」と、クシナーダが言った。
 カガチが傷病兵以外、何も残さぬ状態でトリカミを発った以上、巫女たちはトリカミに戻ることさえ可能だった。しかし、彼女たちはそうせず、距離を置いてカガチたちの後を追った。
 それは巫女たちがトリカミでの軟禁状態を抜け出すと決めた直後、申し合わされていた行動だった。
「クシナーダ様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」アナトが言った。
「はい。なんでしょうか」
「アカル様が申されていたようなこと……本当に可能なのでしょうか」
「わかりません。アシナヅチ様からも、そのようなことは聞かされたことがありません」
「そうですか……」
「ただ、カガチをなんとかしなければこの戦は終わりません。それは明らかなこと。であれば、今はアカル様のお言葉を信じて、わたくしたちはどこまでもアカル様のお力になるしかないと思います」
「それはもちろん。――ね、みんな」アナトは同じキビの巫女たちを振り返った。
 キビの若い巫女たちは、みな、うなずいた。そして焼き栗をほおばりながらナオヒが続けた。
「憎しみ合い、争いを続けたまま、浄化することはできぬ。まずは争いを止めることじゃ。その上でなければ、〝黄泉返し〟などとうてい行えぬ」
「ヨモツヒサメをヨミに返す業ですね」シキが言った。「それはどのようなものなのでしょう。わたしたちも話に聞くだけで、一度もそれを目にしたことはありません」
「むろんじゃ。わしとて代々の語り草として話に聞くだけ。それは岩戸を守ってきたトリカミの民とて同じじゃろうが……しかし、クシナーダはわかっておるのではないか」
 ナオヒの視線を受け、クシナーダはうなずいた。
「皆様もよくご存じのことと思いますが、わたしくしたちは歌と踊りという〝マツリ〟で〝体験〟を伝えてきた民です。〝マツリ〟には型があります。その型を演じることで、わたくしたちは過去の先人たちの体験も実感することができます」
「そういう感覚を抱くことはわたしたちにもあります」シキが言った。「ですが、それはとてもおぼろなもの。たぶん、ここにいるだれも、クシナーダ様と同じような体験ができていないと思うのです」
「うむ。この老いぼれでさえ、〝黄泉返し〟のことはよくわかっておらぬ。話してやってはくれぬか」
 巫女たちのみならず、熱い視線がクシナーダに集まった。
「アシナヅチ様から伝え聞いたことと、わたくしが遠い過去の出来事から受けた印象をつなぎ合わせますと……たぶん、一万年ほどの昔、ヨモツヒサメは世に出ています。大きな時代の節目であったと感じます。その当時、地上にはわたくしたちには想像もつかないような文明が繁栄していましたが、その爛熟期にヨモツヒサメはやはり悪意あるものの扇動によって、世に放たれたようです。そしてその文明は滅びました。今は沿岸の海になっているところの多くは陸地でした。ところが、巨大な水をもたらす星が迫り、洪水が起き、ほとんどの都市は水没してしまいました。かろうじて生き残った人々が、この島国にも逃れ、そして一部の叡智ある人たちが真(まこと)の道を伝えてきたのです。それは共に生きる道です」
 そのとてつもないスケールの物語に、一同は引きこまれた。巫女たちだけではない。スクナや、他の男たちも残らず聞き入っていた。
「その時代、やはりわたくしたちと同じような巫女たちがいました。そして巫女たちの核となってくれる存在がいました。その核となる者と巫女たちの力によって、〝黄泉返し〟が行われたのです」
「その核となる者とは……スサノヲか?」
 ナオヒの言葉にクシナーダは大きくうなずいた。イタケル、オシヲ、スクナ、そしてニギヒらも衝撃を受けた。
「正確にはその時代に存在したスサノヲ様です。今のあのお方そのものではありません。ですが、おそらくスサノヲの〝力〟は、時代の節目に世界を死と再生に導くためのもので、常に二面性があるのです」
「二面性?」シキは強く関心をそそられているようだった。
「破壊と創造です」
 その言葉は、アナトはすでにクシナーダから聞かされていたものだったが、多くの者に衝撃を与えた。
「スサノヲは常にヨミの扉を開く者であり、そしてそこから再生を促す者なのです。ですから、現に今のこの時も、スサノヲがヨミへ行くということがきっかけになって、ヨモツヒサメが世に出てしまったのです。ですが、その責はスサノヲにあるのではありません。スサノヲは単に役目を果たしているにすぎません。いえ、むしろヨモツヒサメがこの世に出現するのは、この世界がいかに澱を積み重ねてきたかということに関わっています。たとえば、この水……」
 クシナーダは眼でナオヒの許可を得て、彼女の器を手に取り、そしてそこに足元の土をかき集めて入れた。その濁った水を自分の器に注いだ。すぐに水は溢れ、こぼれ出た。しかし、その時はまだ水は上澄みのきれいなものだった。次にクシナーダはアナトの器も同様に濁らせ、注いだ。やがて濁った水が溢れてきた。
「ヨモツヒサメが世に出るということは、このようなものなのです。わたくしたち人間が自分だけの想いにとらわれていれば、憎しみや悲しみ、怒りや絶望、虚無といった澱が蓄積され、やがてこの地に蓄えられる器を超えて溢れ出してきます。今がその時だったのです。スサノヲはそのような時に現れるのです」
「この世を壊すために現れるのですか」蒼ざめたような声で言ったのはナツソだった。
「いや、そうではない」と、理性的な声音で言ったのはイズミだった。「つまりそれは……風を入れるためということでしょうか。カビの生えてしまった家の中に、風を入れて良い状態にするために」
 パッとクシナーダは大きく目を開いた。「それは、とてもよいたとえです。イズミ様はとても理に優れたお方ですね」
 イズミは戸惑い、赤らんだような顔になった。
「そうなのです。わたくしたちの澱が淀み、淀んだものが増え、器を溢れ出してしまうとき、スサノヲはその澱を取り除くためにも現れるのです。ですが、澱を取り除くためには、それと一度、正面から向き合わねばなりません。このように……」
 クシナーダは自分の器に残った泥を見て、そして器を傾け、それを足元に落とし、指でも掻き出した。
「澱をきれいにしてしまうには、新しいきれいな水をまた注ぎ――」すでに意を察したシキから器を受け取り、その水を泥の少なくなった器に注ぎ、また流した。「こうしたことを繰り返さねばなりません。それはじつは、わたくしたち一人一人がなさねばならないことなのです。わたくしたち個人の想いは、ちっぽけなようでいて、じつは世界の命運を作り出しているのです」
「スサノヲはそのための力になってくれるということでしょうか」ナツソはまだ用心しながらという風情で尋ねた。
「はい。わたくしたち巫女は、ものを受容する力には長けていますが、苦手なこともあります」
「取り除くこと?」と、イズミ。
「はい。押し出す力というのか、対抗する力というのか……わたくしたち巫女の本質は、そのようにできておりません。陰と陽の力が合わさることで、ようやく〝黄泉返し〟は可能になります」
「具体的には何をすればよろしいのでしょうか」と、イズミ。
「おそらく……これを成し遂げるためには、スサノヲ以外に、最低でも八人の巫女と勾玉が必要です。それも胆力の備わった、強い霊力を持つ巫女です」
「八人……」ショックを受け、イズミはすぐ落胆するような表情になった。「しかも霊力に優れた巫女となると……」
「イズミ様」
「は、はい……」
「あなた様は十分にその力をお持ちです。アナト様や、他の巫女様と自分を比較なさらないことです」
「え……はい」イズミはと胸を突かれたようになった。
「クシナーダ様、今ここには巫女が六人しかおりません」と、頭数を数えていたシキが言った。「〝黄泉返し〟を行うには数が……アカル様を入れても七人です」
「皆さん、誰かお忘れではないですか」
 はっとしてアナトが声を上げた。「ヨサミ?!」
「え……でも……」ナツソが戸惑ったように言い、キビの巫女たちは顔を見合わせた。誰もがわかっている周知の事実があるからだった。そして、言いにくいことをイズミが代弁した。
「クシナーダ様……。ヨサミ様はもう巫女としての力も資格も失っております。トリカミの里の他の巫女の方では……」
 クシナーダは首を振った。「ミツハが生きていれば、きっとお役目を果たせたはず……。けれど、残っているトリカミの巫女たちは、いずれも若すぎます。胆力ということを申し上げましたが、皆さんはこの今の事態を受け止め、乗り越えようとなさっています。その意志こそが重要なのです。トリカミに今残されている巫女たちは、あまりにも未熟すぎますし、まったく準備ができておりません」
「しかし、ヨサミ様はもう霊力をほとんど失っておりますし、今のままではとても協力してくれるとは……」
 クシナーダはそれには応えず、アナトを見た。ヨサミともっとも近しい間柄であるアナトを。その視線を受けたアナトは拳を両ひざの上で握り固めた。
「……この頃、昔のことをよく思い出します」
 誰も口を挟まず、アナトの言葉に耳を傾けた。
「キビの皆は周知のことですが……わたしとヨサミは幼馴染です。カヤとアゾは隣国として、古くから深い交流を持ってきました。わたしたちはよく国を行き来していました。たしかあれは……わたしたちが九つくらいの頃だったと思います。ちょうど今ぐらいの季節でした。コジマからナツソ様がアゾに見えられ、わたしは一緒に年初めの神事に使う曲を考えていました」
 ナツソはアナトの言葉を受け、はっと思い出したような表情になった。
「そのときヨサミが、ご両親と共にアゾにやって来ました。ヨサミといつものように過ごせればよかったのですが、わたしはその頃からやがては国をまとめる巫女として立つように、周囲から求められていて、その……余裕がなかったのです。とくに両親の期待に応えねばと、ヨサミと一緒に遊んだり、お話をしたりすることよりも、立派な巫女になることのほうを選んでしまっていたのです」
 クシナーダは静かな表情で耳を傾けていた。
「ナツソ様と曲作りに没頭しているわたしを見て、ヨサミはきっと寂しかったのでしょう。アゾにいる間にいなくなってしまい、大騒ぎになりました。わたしもそれを聞いて慌てて、ヨサミのことを探し回りました。そのときには……」アナトは頭(かぶり)を振った。「いつもはあれほど当てにしていた霊感も働かなくて、ヨサミをどうしても見つけられないのです。だけど、少し時間がたち、当たり前のことを考えました。ヨサミはわたしと遊びたかっただけ。なら、いつも遊んでいたアゾの中州にいるのではないか……。行ってみたら、ヨサミが岩の陰で泣いていました。そして……」
 ――どうしてもっと早く見つけてくれないの!
「……だけど、ヨサミはそう言いながら、わたしに抱きついてきました。あのときのことが、なぜか今、思い出されてならないのです」
 そのとき、小屋の扉が激しく音を立てた。吹雪の風が扉を叩いたのかと思われたが、そうでなかった。
 小屋の扉を打ち、こじ開けようとしているのは人間の手だった。男たちは敏感に反応し、一斉に立ち上がった。イタケルとニギヒはいち早く剣を抜いた。
 戸口の隙間に覗いた顔は、彼らを驚かせた。それはモルデであり、彼が支えているのはエステルだった。
 モルデはそこにいる顔ぶれを見て戸惑いと落胆を表情に浮かばせた。とりわけキビの巫女たちの顔を確認し、おそらくはここがカガチの息のかかった勢力の一部と接触してしまったと思い込んだのだろう。だが、イタケルやオシヲ、ニギヒの顔を見て、逡巡の箍(たが)が外れた。
「スサノヲ様を助けてあげてくれ!」
「なに?」イタケルが気色ばんだ。
「独りで追手と戦っている! スサノヲ様は怪我をしていて……あのままでは、いかにスサノヲ様でも!」
 男たちは小屋を飛び出した。逆に精根尽き果てたように、モルデとエステルはその場に崩れ落ちた。その二人を飛び越えるようにして外に出たのはクシナーダだった。
「スサノヲ!」クシナーダは吹雪の中、叫んだ。
 すでに夕闇が濃くなっていた。視野はほとんど利かない状態だが、クシナーダの耳は超常的な能力で剣の響きを聞きつけていた。走り出す。
「クシナーダ様!」
 背後の男たちの声は吹雪の中に埋没する。クシナーダは元来た道を走った。途中から雪をかき分けるようにして斜面を這い上がっていく。
 男たちの喚き声が聞こえた。なおいっそう、剣戟の響きが強く耳朶を打つ。
 クシナーダはそこに見た。斜面を駆け下りてくるスサノヲと、彼に迫るカナンの兵士たちを。
「スサノヲ!」
 吹雪を貫いて、クシナーダの叫びが届いた。スサノヲが振り向くのが、横殴りに降りしきる雪の中、見えた。
 次の瞬間、クシナーダは「あッ」と声を上げた。柔らかい雪を踏みしめていた足が滑り出し、止まらなくなったのだ。彼女は手をスサノヲに差しのべながら、ついた勢いを止めることもできず、滑落した。
 そして、気が付いたときには身体が宙を舞っていた。
 眼下は川だった。
 凍りつくような水が、衝撃と共に全身に突き刺さった。

 

2015_04_04



    1

「洪水だ!」
 叫びがトリカミに響き渡った。それは鋭い揺れの地震の後だった。
 地震は激しいもので、家屋のいくつかが倒壊した。慌てて外に飛び出した里人がほとんどで、下敷きになって怪我をするような者はいなかった。が、それからほどなく斐伊川のほうから異様な轟きが迫ってきた。
 トリカミは小高い場所に中心の集落があり、洪水そのものがその丘に駆け上ることはなかった。が、それによって甚大な被害をこうむったのは、他ならぬカガチの軍勢だった。
 オロチ連合軍はトリカミ一帯からカナンを追い払うと、そのまま川の下流方向へ部隊を展開していた。トリカミのやや北の広い河原に主力を配備し、さらに北に位置するイズモのカナン軍に備えていたのだ。
 気づいたときには遅かった。あっと振り返ったときには、巨大な泥の化け物のような洪水が、兵たちを残らずひと呑みにし、濁流の中に叩き込んでしまった。氾濫した川の水が眼前にまで迫り、命からがら逃げだしたのは、キビから同行していたイオリ――キビで山城を造営していた太守――と、彼の周辺にいたわずかな者ばかりだった。
 難を逃れたイオリは泥だらけになってトリカミまで引き返し、カガチに報告をした。
「ほどんど全滅だと……」カガチの表情はさすがにこわばった。
「い、いえ。今も生存者を探しておりますが、あの有様では大半はとても助からぬものと……」
 焚火のそばでカガチは、すでに夕闇が濃くなったトリカミの里を見まわした。トリカミには里人の反抗があったときのために百名ほどの兵を残していた。それだけいれば、武器を持たぬ者のコントロールなど容易だと考えていたのだ。
 そして残りすべてを北へ向かわせたのは、カガチ自身の判断だった。カナンがどこかで態勢を立て直し、反攻に出てくる可能性を考えたら当たり前の措置だったが、この責はどこへも持って行きようがなかった。
「こんな馬鹿な……」
 ヨサミはカガチのそばにいて、彼がそのような言葉を漏らすのを初めて聞いた。さしもの鬼神も動揺は隠しきれなかった。
「全兵力の半分近くを失ったということか……」
 オロチ軍はタジマから西進したミカソ率いる軍と、そして海から攻め入ったタジマ水軍、コジマ水軍の二つが、イズモのカナン主力と対峙しているはずで、まだそれは残されているはずだった。そこへ南の山側からカガチたちが進軍すれば、もはや壊滅的な状態になる――はずだった。
 その計画が、今、根底から瓦解してしまっていた。たった一度の洪水で。
「カガチ様、この上はミカソらの部隊と合流するのを急いだ方が良いかと」脂汗を浮かべるイオリは、今にも激高したカガチに切り殺されるのではないかという恐怖をありありと見せていた。「もしここへカナンが攻勢をかけて来たら、ひとたまりもありません」
「ひとたまりも?」カガチの眼が酷薄そうな光を浮かべて見つめた。「この俺がここにいるというのにか」
「あッ――いえッ! それは、カガチ様がおられれば」ぶるっと震える。
 カガチは立ち上がった。イオリは、ひっと後ずさる。
「巫女どもの様子を見てまいる。イオリ、おまえは生存者の救出の指揮を取れ」
「わ、わかりました」
 イオリが頭を下げる横をカガチは素通りして行った。巫女たちを収容している家屋のほうへ向かって歩いて行く。


「皆、死んだ――?」
 愕然とした声を上げたのはアナトだった。
 巫女たちの前には一人の男が身を低くしていた。彼はイスズがヤマトから連れてきた従者、カーラだった。浅黒い肌をした小柄な男である。
 カーラはイスズが連れてきた兵たちとは行動を共にせず、影のようにひっそりとイスズにだけつき従っているのだった。
「先ほどの地震が引き起こした洪水は凄まじく、ここより北に陣を張っていた軍勢すべてをひと呑みに致しました。そこにはほとんどの兵力が集められていました」
 カーラはその眼で見た光景を語った。それはすなわち、アナトたちにとっては同胞たちの死を告げるものであった。アナトらキビの巫女たちは、がっくりと肩を落とした。
「わたくしがヤマトから連れてきた者たちもか」と、イスズが問うた。
「はい」
「狂気は凶事を呼ぶ……」ナオヒが言い、傍らでまだ眠っているアカルを見つめた。「アカルがさきほど穢れを吐き出したように、大地もまた穢れを一掃しようとする。穢れを地に溜めこむのは、それは人じゃ。草木も動物も、皆、自然のままに生きておる。ただ、それだけ。が、人は違う。人は意識の在り様を地に反映させるのじゃ」
「人の意識が穢れれば、このようなことは起きると……」と、シキが言った。キビでの災害を目の当たりにした彼女らには他人事ではなかった。「わたしたちのせいということでしょうか」
「シキと申したな」
「はい」
「そなたは意識を身体から離して飛ばすことができよう」
「あ、はい……」初対面なのに能力を見透かされたことに戸惑いを見せた。
「ならばこのネの世界が、丸い星であることも知っておろう」
「はい……。美しい青い星です」
「この島国の様子や星の在り様を見て、何か不思議に思うたことはないか」
「…………」シキはしばし床に眼を落としていたが、はっとしてナオヒを見た。「このワの島国の形のことでしょうか」
 我が意を得たりとばかりにナオヒは笑みを浮かべてうなずいた。
「このワの島々は、この星の他の大きな島々と形が似ております! まるで世界を集めたような……不思議に思っておりました」
「その通りじゃ。カタチが似るということは通じるということじゃ。このワの島々には多くの地脈が集まっており、外国(とつくに)ともつながっておる。人の身体で言えば、臍のようなものじゃ。腹の中の子は、臍で母親とつながっておるであろう。ここにイザナミ様がここにおわすのもそのため」
 クシナーダ以外の巫女たちは驚き、顔を見合わせた。彼女らにとっては未知というよりも、すでに失われつつある情報だったのだ。
「ワの国は地脈を通じて、じつはこの島国以外の世界の浄化も行っておる。そのためこの島国には地震も火山も多くできておるのじゃ。しかし、もしこの臍であるワの国自体が穢れてしもうてはどうなる?」
「胎児は死にまする」シキは寒々とした声音で言った。
「さよう。この場合、胎児というのはこのネの世界、このまあるい星のすべてじゃ。根が枯れれば、すべて死に絶える……」ナオヒはたんたんと恐ろしいことを語った。「もう一万年も昔、そのような恐ろしい崖っぷちに至ったことがあると聞いておる。その時も人の心は乱れ、穢れを地に溜めこみ、それが溢れ出した。心を持たぬ者はおらぬ。人は皆、その心でこの星の命運にかかわっておる。心こそが未来を作るのじゃからな」
「未来が視えなくなりました、なにも……」イスズが宙を見つめて言った。「ついしばらく前まで、あれほど多様に広がっていた未来が、たった今は閉ざされたように……。そうではありませぬか、クシナーダ様」
 クシナーダはうなずいた。「わたくしがかつて視ていた、自分の二つの未来。それが今は闇に塗りつぶされたように、まったく何も視えなくなりました」
 彼女は自分の胸を片手で押さえていた。まるでそこが痛むかのように。
「それは、もう未来がなくなったということでしょうか」アナトが蒼ざめて言った。「わたしたちがあまりにもこの世を穢してしまったせいで」
「ヨモツヒサメをヨミに返さねばなりません」と、クシナーダが言った。「あれがこの世に出ているかぎり、未来はないのです」
「わたしはあのようなもの、ただの言い伝えに過ぎぬと思うておりました」年若いイズミが言った。「トリカミが守っている岩戸。天にも地の底にも通じる岩戸。トリカミが侵され、穢されるとき、岩戸に封じられていた〝死の力〟がこの世を滅ぼすという……」
「ヨモツヒサメは人の意識の闇が集まったものです。復讐心、憎悪、嫉妬、強欲――そのような意識の集合体ですが、地の底にある手を触れてはならぬ〝力〟――石のようなものの化身でもあります。それを掘り出し、手を触れてはならぬのです。ぷ……ぷるとにうむ……そのような名の化身です。それにはこの世を滅ぼす〝力〟があります。まさに死の化身なのです」
 クシナーダの言葉に、皆、重い沈黙に落ちた。
「クシナーダ様、大丈夫ですか? さきほどから何かお苦しそうなご様子」ややあってイスズが声をかけた。
「はい。ありがとうございます。ご心配には及びません」
 その言葉ほど、彼女は顔色も冴えなかった。ずっと胸に手を当てたままである。
「クシナーダ様」アナトが言った。「わたしは先々代の老巫女から聞いたことがございます。〝ヨミ返し〟という技があると」
「はい……。しかし、そのためにはまず私たちが諍いをやめなければなりません。この地で起きている戦いをやめさせることが絶対に必要です」
 クシナーダはイスズを見た。その眼差しを受け、イスズは感嘆をあらわにした。「本当に……クシナーダ様は何もかも見抜いておられるのですね」
 周囲が何のことかわからず、きょとんとした。ただ一人、ナツソだけが、あ……と思い当たるような反応を示した。
 イスズは彼女らに向かって静かに言った。「皆様、わたくしはこの戦いを終わらせるために参りました。それこそがわたくしが果たさねばならぬ責なのです」
 一同はその言葉にあっけにとられた。イスズにこの戦いの何の責任があるというのか。そして、この戦いを終わらせる、どのような手段があるというのか。
「カーラ、あの者の居場所は?」イスズは、変わらずそこに待機している従者に言った。
「はい。わかっております」
「今宵、わたくしをそこへ連れて行っておくれ」
「はい。しかし、見張りが……」
「この里の者に頼んで、お酒を分けてもらい、彼らに呑ませなさい。あとは、わたくしが彼らを眠らせます」
「わかりました」
「では、行きなさい」
 カーラは頭を下げ、家屋を出て行った。巫女たちに食事を届けるという口実で家に入ったのだが、やや長かった滞在にも衛兵はあまり神経をとがらせなかった。オロチ軍は今それどころではないのだ。今も次々と洪水の現場から、負傷者が里の中へ運び込まれている。
「もし事を起こすとしたら、今宵以外、機会はないでしょう」従者を見送って外の様子を眺め、イスズが振り返った。「わたくしが今夜、ここを抜け出られるように、お力をお貸しください」
「それはできうることなら……」アナトが言った。「イスズ様、いったい何を……あの者というのは?」
「モルデという、カナンの者です」
 巫女たちは顔を見合わせた。
「モルデを生かしてここから解放するのです。それだけが唯一、この争いを止める手だてとなります」
「なぜ、あのような者が」
「それは……」
 イスズが言いかけたとき、クシナーダが前のめりになって倒れた。
「クシナーダ様!」
 巫女たちが動揺して詰め寄る中、クシナーダは胸を抱きかかえるようにして、うわ言のようにつぶやいた。「生きて……」
 覗きこんだナオヒが言った。「クシナーダは今、スサノヲを助けようとしておるのじゃ」
「スサノヲ?」
「この争いの命運を握る男じゃ。今おそらく傷つき、死にかかっておる。クシナーダはそれを助けようとしておるのじゃ。そなたらもわかるじゃろう。病の者を癒そうとすれば、同じ場所が痛くなったりするであろう? それを浄化することで病は治る。それと同じことをクシナーダはしておる」
「何事だ」
 はっとして振り返った。戸口にカガチの巨体があった。その眼が横たわるアカルを、そしてクシナーダを見た。
「約束通り、アカルの命は救った」ナオヒが言った。「が、まだ二人とも予断を許さぬ。今しばらく安静にさせておかねばならぬ」
 カガチは黙って、アカルの顔を覗きこんだ。そのごつい指先で、そっとその頬に触れた。その仕草は似つかわしくないもので、巫女たちを戸惑わせた。しかも、その指先は震えているように見えた。
「よけいな考えは持たず、おとなしくしておることだ。戦いが終われば国に戻れる」
 カガチはそのように告げると、去って行った。

    2

 東の夜空に赤い星が上ったころ、イスズは行動を起こした。衛兵たちはカーラが差し入れた酒を上機嫌で呑み、連日の行軍での疲れも手伝い、焚火のそばで居眠りが付き始めた。
 巫女たちは聞こえるかどうかというほどの声音で、人の神経を和らげる歌を口ずさんだ。その一方、イスズたちはやや遠隔ではあったが、〝気〟を衛兵たちに送り続けた。心地よい〝気〟を注入された人は、猛烈な睡魔に襲われる。疲れていればなおさらだった。
 衛兵たちの意識がなくなるのに、さほどの時間は必要なかった。
「よいですか。わたくしが勝手に行動したのです。皆様は何も知らずに眠っていた」他の巫女たちを諭すイスズの切れ長の目には、静かだが強い意志がみなぎっていた。「何が起きるかわかりませぬ。わたくしが無事に事を成就して戻ってくることを祈ってください」
 アナトたちはうなずき、イスズが衛兵たちの間を抜け、カーラに迎えられるのを見送っていた。里のあちこちで篝火が燃やされているが、やがて二人の姿は闇に同化したように見えなくなった。
「アナト様、わたしは意識を飛ばして、お二人を追いかけます」シキがそう言い、静かに座った。彼女にとっては慣れた技だった。目を閉じて呼吸を整え、幽体を肉体から離脱させる。
 シキの幽体はアナトたちには霊視で追うことができた。
「わたしも遠視を……」
 アナトたちキビの巫女は囲み合うようにして座り、目を閉じた。肉眼を閉じていようと、シキの姿はしっかりと見据えられている。〝力〟は同種の能力を持つ者と共鳴することで高められる。シキが幽体離脱することで、引っ張られるように彼女らの意識も遠隔視が容易になった。
 ナオヒも眠りこけているように見えて、じつはすでにシキと同じく幽体離脱し、イスズの姿を追いかけていた。
 里の中は苦痛で満ちていた。昼間の戦争で傷ついている者たちの呻き、悶え苦しみが夜陰の中、気配として伝わってくる。警備に当たっている以外の兵はトリカミの里の祭殿に集まっていること、里人はそれぞれの家屋で過ごしているらしいことがわかった。
 カーラに連れられてイスズが向かったのは、その祭殿の近くにある物置のような小屋だった。祭殿前の広場には中に収まり切らない兵士たちが野営している。彼らに気取られないように行動しなければならなかった。
 小屋の戸口のところにも衛兵が二人立っていた。指示されるまでもなく、カーラはこの二人にも酒を差し入れたようだった。しかし、疲れと眠気は見せてはいるものの、焚火のそばで話し込んでいて、睡魔に引き込まれる様子はなかった。
 イスズがほとんど無言で出した指示で、カーラが動いた。彼は堂々と彼らの前に姿を現し、笑いながら近寄って行った。酒を差し入れていることもあって、衛兵はカーラに気を許していた。
 隙をついてカーラは二人を襲った。一人は背後からの強打で、もう一人は振り返ったところをみぞおちに入れた拳で気絶させた。カーラは茂みに隠れるイスズを目で呼ぶ一方、衛兵二人は見えないところへ引っ張り込んで隠してしまった。
 イスズが祭殿のほうを気にかけながら急ぎ駆け込んできた。カーラはそのまま戸口のところで警戒に当たる。
 小屋の中に横たわる男は満身創痍だった。露出している腕や脚で傷や痣のない場所を探す方が難しかった。髪はぼさぼさ、髭におおわれた顔はやつれ、眼だけがぎらぎらと輝いていた。女の手ではにわかにほどけないほど両手を背後できつく縛られている。イスズはカーラを呼び、戒めを解かせた。
 両手が自由になったモルデは、その場に座り直した。そして不審げな眼差しをイスズに送った。
「あんた、誰だ……」血流の通い始めたのを確かめるように手首のあたりをさすりながら訊く。
「ヤマトのイスズと申します」
「ヤマト?」その言葉にモルデは引っ掛かりを感じたような反応を示した。
「一緒に来てください。さあ」
「どういうことだ」
「すぐにお話します。さあ、急いで――」
 促すため手を伸ばした瞬間、モルデは厳しい拒絶のこもった動作でイスズの手を払いのけた。
「触るなッ――。異教徒の巫女が」
 それは見ている巫女たちも愕然とするほどの、非常に際立った嫌悪だった。これまでの苦痛と憎悪の分もこもっているとしても、モルデが見せた「異教徒の巫女」への嫌悪は、ほとんど本能的なものとさえ言えた。
「あんた、巫女だろう。身なりを見ればわかる」モルデはそう言いながら、周囲のものにつかまりながら立ち上がった。「俺に何の用だ」
 幽体となってその場に居合わせたシキは、遠隔視をしてそばに来ているアナトの意識が失望しているのを知った。アナトは一度、キビでの交渉でモルデに相対し、彼らカナンの民が持つ強固な選民的思想を見抜いていた。そのとき以来、モルデは何も変わってはいないということの証明だった。
 ――しかし、と巫女たちは期待を込めて思った。
 イスズが彼女らに語った真実。それをモルデに話し、そしてモルデがもしそれを受け入れることができたなら……。
「あなたを逃がして差し上げます」
「俺を……? なぜだ? おまえらはあのカガチの仲間だろう」
「心ならずも……。あなたには真実を知る勇気がありますか。わたくしが知りたいのはそれです。もしそうでないのなら、このままあなたを置いてここを去ります」
「真実だと? どういうことだ?」モルデの顔に苛立ちがあらわになってきた。「持って回った言い方をせず、はっきりと言え」
「わたくしはあなたがたと同族です」
「!」
 このときのモルデの驚愕と混乱ぶりは見ものだった。驚き、猜疑、揺れ動き、そんな感情をぐるっと回ったのち、彼は最後に笑いという表現を選択した。
「ばかな……。はは、何を言い出すかと思えば」
「ヤー・マト」イスズが言った。「その言葉の意味は?」
 それはモルデがさきほど引っかかった言葉だった。
「……神の民……」心を許さぬ警戒を滲ませながらモルデは言った。
「そう。あなた方の元の言葉で〝神の民〟――それがわたくしの国の由来でもあります」
「あんたの……?」
「わたくしはあなたがたより先んじて、この〝もう一つの土地〟――エルツァレトに辿りついていた者の末裔です」
 この瞬間、モルデの顎が外れるのではないかというほど口を開いていた。「あ……あ……まさか、〝失われた支族〟……!?」
「そうです。わたくしたちの先祖は北の王国サマリアが滅び去った後、ここへたどり着いたのです。そうして幾世代も、この地の人々と交わり、溶け合って時代を生きてきました。モルデ、あなたがたは南の王国の末裔でしょう」
「し、しかし、そんな……それなら、なぜそのような異教のわざを……神のご意志に背き、また邪教に堕落したのか」
「愚かな……」
「愚か?」
「わたくしの先祖は長き放浪の果て、この地に辿りつき、真実を知ったのです」
「真実とは……」
「創造されたこの世界にただ一つの神を見る者と、この創造された世界すべてに神を見る者の違いでしかないということに」

 ――唯一の神。そなたらの言う唯一の神というのは、いったいいかなる神なのか。
 ――この地のすべてを創造され、支配されておられる神。
 ――その神のどこが、われらの感じる神々と違うのだ。

 モルデの脳裏に、アナトと交わした言葉がよみがえった。あのときは一笑に付してしまったが、あのやり取りの裏側にあったアナトの言わんとすることは……。
「モルデ、良いですか。神は普遍的なものです。しかし、それは伝える人間によって、否応なく色づけされてしまうのです。人の言葉で神のすべてを表現することはできないのです。それは子供が、大人の考えを把握できないのと同じことです」
 モルデはよろめき、背後の壁にぶつかった。積み上げられていた薪が崩れた。
「そんな……」
「あなたの君主であるエステル様にお伝えするのです。戦い、奪うことをやめれば、この島国で当たり前に生きていけるのです。わたくしたちがその証明です。もしよかったら、わたくしの国に来てもらってよいのです」
 はっとモルデはイスズを見た。捕虜の身であっても、彼にもこの戦況がカナンにとって極めて厳しいものであることは理解できていた。
「あんたの国に……」
「そうです。ヤマトに」
「ヤマト……」落ち着きのない眼が、足元のあたりをさまよった。激しい迷いが彼の心に生じていた。
「わたくしが嘘をついていると思いますか」
「い、いや……」
「いつか、あなたがたのような者が到来すること、わたくしたちは待っていたのです。争い奪うのではなく、共に生きましょう。このワの国で。さあ――」
 イスズの差し出した手。モルデはそれをしばらく凝視していた。
 シキやアナトたちは残らず、このとき祈っていた。イスズの想いがモルデに伝わり、彼を動かすことを。
 モルデの手が、ゆっくりと持ち上がった。
 この国に来たときから、他の異教徒と〝どこか違う〟と感じていた、その漠然とした想いの根源――それが今、イスズという巫女として彼の前に存在していた。
 それと彼は、手を結んだ。
 イスズは、これ以上はないというほどの微笑みを浮かべた。
「神はすべて……。ならばこの世のすべてに神は宿っておられる。このワの地に来て、わたくしたちはそれを知るというよりも実感したのです。すべては貴い。すべてに神性がある。この島国の民は、まるで息をするかのように、その感覚を普通の暮らしにしていた。そしてあなたがたも、わたくしたちの祖先がそうであったように気づくでしょう。このエルツァレト――葦原の国は、本当はわたくしたちにとっても、はるかな……」
「イスズ様、お急ぎください」カーラの鋭い声が割って入った。
 小屋の中の二人は、はっとして動き出した。
 ――カガチが来る!
 幽体離脱しているシキは、あえてそのとき小屋から離れ、上空からの視点を得ていた。そして警告を発した。
 その思念はイスズにも伝わった。
「カーラ、モルデを導き、この里を出なさい。そして彼と共にエステル様に伝えるのです。戦いを終わらせ、違った道を選ぶように。このような手段によらずとも、カナンはこの地で生きられる。わたくしたちの祖先がそうであったように」
 イスズの言葉にカーラは衝撃を受けた。「イスズ様は――」
「おまえはこれより後はアナト様にお仕えするのです」
「イスズ様――」
「お行きなさい!」イスズは鋭い声音で従者に命じた。そして、モルデの背中を押した。
 硬直している男二人をしり目に、イスズは祭殿に向かって歩き出した。篝火に照らされた広場を、巨漢が歩いてくるのが見えた。カーラはそれを見て、モルデの腕をつかんだ。茂みをかき分け、里を出るべく、もっとも近い進路を走り出す。
 イスズはあえて目立つようにカガチに向かって歩いて行った。
「なにやらおかしな気配がすると思うておったが……」カガチは酷薄な眼を下ろして言った。「イスズ……こんな夜中になにをしておる」
「あなたと話をしようと思ってやってきました」
「ほう。なんの?」カガチの視線はイスズの背後の小屋へ動いた。そこにいるはずの衛兵の姿がないことには気づいていた。
「兵をお引きなさい」
「なんの冗談だ」
「あなたは大きな過ちを犯しています」
 カガチの背負う悪霊の如きものがざわめき、イスズに圧力をかけてきた。
「あなたの行いが触れてはならぬものに触れ、解き放ってしまいました。あなたは自分の未来をも、自分で消し去ったのです。しかし今ここで、未来にはかすかな光がある。その光を広げ、未来を呼び戻すためには、ここで兵を収める必要があります」
「ふざけたことを……。あの者を逃がしたな」カガチの眼が小屋を見た。「どういうつもりだ。何を考えておる」
 カガチは予知や読心の能力をヨサミから得ていた。この夜にイスズの動きを察知したのも、その〝力〟と無関係ではなかったろう。が、彼は本来の巫女ほどその能力を使いこなせてもいなかったし、イスズのような巫女が心を閉ざしてしまえば、その考えを読み取ることなどはできるものではなかった。
 ちっと舌打ちし、カガチは祭殿の広場で野営している者たちに叫んだ。「捕虜が逃げたぞ! 追え!」
 疲れ切って眠りに着いていた兵も、その轟くような一声で飛び起きた。
「カガチ様! いったい何が――」
「さっさと追え! カナンの捕虜が逃げた! 探し出し、連れて来い!」
 兵たちは慌てふためき指令に従って散っていく。
「あの者の首をエステルとやらの目の前で切り落としてやるのが趣向よ。おまえなどに邪魔はさせん」
 イスズは眉根を寄せた。
「ヨサミはそれを見て、さぞかし喜ぶだろう。やつらにはただ死ぬよりも惨い思いを味わわせてやる」
「愚かな……」
「イスズ、おまえはいつもそうだ」カガチはゆっくりと巫女の回りを歩きながら言った。「俺を哀れな者のように見下げた物言いをする」
「あなたの行いは、ただ憎しみを生み増やし、育てるだけ。それはいつか自分に戻って来る。それを愚かと言わずして何と言えばよいのですか」
 カガチは腕を伸ばし、大きな掌でイスズの顔面をつかんだ。指の間から切れ長の眼が、ずっと見つめ続けていた。
 カガチの背負うものが、いっそう大きくざわついた。苦悶し、のたうつようにうごめく。
「……そんな眼で俺を見るな」
 頭部を締め付ける握力が強まり、イスズは苦痛に耐えた。が、眼が閉じられることはなかった。
「その眼をやめろ……。その冷たい眼を!」
 カガチはまるでボールでも投げるようにイスズの頭部を地面に叩きつけた。細い首が折れるのではないかというほど暴力的なやり方だった。
 ――イスズ様!
 シキが、そしてほかの巫女たちが意識の叫びをあげた。
 獣のような唸りを発し、カガチは苦しむイスズの身体の上にのしかかった。「やめぬのなら、この場でおまえを犯し、五体を引きちぎってやろうか」
 そう言い、胸元の衣類を引き裂いた。怪力のカガチには造作もないことだったが、衣が裂けるほど引っ張られるのだ。イスズの肌は傷ついた。
「やってごらんなさい」イスズは苦しみながら、それでも毅然とした眼をなくさなかった。「その前に舌を噛みます」
 その眼の中に、カガチはかつて自分に向けられた冷たい女の眼を見ていた。
 ――あんたなんか、生まれなければよかった。
 そう言った母の眼だった。
 その母は、起きた戦乱の中、他の家族もろとも惨殺された。殺される前、侵略兵によって犯され――。
 子供だったカガチは、隠れてそれを見ていた。事後、血の海と化したその場所に、カガチは佇み、骸となった母を見下ろし、思った。
 このような惨い死に方をするくらいなら……

 俺が殺してやればよかった。

 数々の女の面影がフラッシュバックした。それはアワジら、トリカミの巫女たちの顔だった。彼が毎年、殺してきた女たちの顔――それが今、イスズの白い面差しの上に重なり合っていた。そして、母の顔も――。
 イスズは視野が暗くなってくるのを感じていた。カガチの両手が首を絞めつけていた。
 ――イスズ様!
 悲鳴のような声が聞こえる。他の巫女たちが狂ったように騒ぎ立てていた。
 ――見ておくのです。救われ得ぬほどの悲しみを。
 イスズは思念を放った。
 巫女たちは視ていた。イスズの上に馬乗りになり、首を絞めている男の姿を。
 いや、それは巨漢のカガチではなく、少年だった。少年は涙を流しながら、〝母〟の首を絞めていた。すでに息絶えた母の首を、彼はもう一度絞めていた。
 その母の顔は、アカルに似ていた
 ――それでも……。
 イスズの意識が途切れた。


 離れた場所にある巫女たちの家屋で、アカルとクシナーダは同時に目を覚ました。
「イスズ様……」
 気づくと、キビの巫女たちは抱き合って泣いていた。
 ナオヒはクシナーダと目を合わせると、やるせなく首を振った。


 遠い篝火が照らすイスズの顔は、もう眼を閉じていた。
 カガチはぶるぶると震える両手を見つめていた。よろめき、動かぬイスズの上から離れた。そして彼は吠えた。
 月のない夜空に向かって。

    3

 全身、痛みを発さぬ場所などなかった。身体が熱く、だるい。しかし、そんな状態でありながら、モルデは走っていた。
 松明を持った追手が迫る。カガチに命じられた兵士たちだった。
「待て!」幾度も叫びが背中に突き刺さる。
 息が切れる。長く囚われ、力を失っていたモルデの足がもつれた。とてつもない氾濫を起こした斐伊川が満たした泥に足を取られ、転倒してしまう。
「モルデ様!」カーラが慌てて引き返してくる。
 兵士がそのカーラに斬りかかる。敏捷にそれを避けながら、カーラは相手に足払いをかけた。ひっくり返り、泥に顔を突っ込んだ兵士からモルデがすかさず剣を奪う。
 モルデは雄叫ぶように気合を発した。襲い掛かってくる兵を押し返し、斬りつける。
 生きる。
 俺は生きて、エステル様のところへたどり着く。
 その執念が弱り切っていた彼の身体に活力を与えた。カーラも敵兵の剣を奪い取り、応戦した。が、追手は多かった。たちまち取り囲まれてしまう。
 もはや退路はどこにもなくなった。
 その時だった。オロチ兵のひとりが絶叫を上げた。背後からの攻撃を受け、もがき苦しみながら倒れる。その向こう側から現れた黒い影が、また一人、そしてもう一人、不意を突いて斬りつけた。兵士の持っていた松明が、ぬかるんだ地に落ち、じゅうという音を立てて火を次々に消していく。
 突発的な事態にうろたえる反対側のオロチ兵の背後から、また急襲があった。うわああ、と叫びと共に、兵の背中に突っ込んできたのは少年だった。さらにその隣に出現した男は一人の兵を斬りつけ、もう一人は脚で蹴飛ばした。
 囲みは完全に破れた、思いがけぬ助勢を得たモルデとカーラは包囲を突破した。
「こっち! こっちよ!」少女の声が聞こえる。
 モルデはその声のする方へ走った。
 松明の光が少なくなり、闇の濃度が増した場で、攻防が繰り広げられた。が、夜陰に紛れて襲われたオロチ兵は、動揺を立て直す暇も与えられなかった。カーラと最初の黒い影の男が、それぞれに最後となった敵を打ち倒した。たまたま岩の上に落ち、消えるのをまぬかれた松明の一つを黒い影の男が拾い、モルデのほうへ近寄ってきた。
 その男はニギヒであった。
 そして彼のそばにイタケル、オシヲがいた。オシヲは興奮し、大仕事を成し遂げた後のように玉の汗を浮かべ、荒い息を繰り返していた。
 明かりが近づいたので、モルデは自分を呼んだ少女のほうを振り返った。そこにはスクナがいた。
「モルデ様、大丈夫ですか」カーラがやって来た。これも息が荒い。
「誰かと思えば――小汚えなりをしてるが、おめえ、いつかのカナンのやつだな」イタケルが言った。
 相手はトリカミの里の男だとモルデも知った。
「どういうことだ、こりゃあ。ちっと説明してもらおうか」

 イタケルたちは運に恵まれていた。あの地震をきっかけとする川の大氾濫が起きたとき、彼らはスクナの誘導で川から離れた道を進んでいた。これは当然、川沿いの道に存在するかもしれないオロチ・カナン双方の兵を警戒していてのことだった。岩戸への往路と同じく、復路もスクナが熟知する山中の抜け道へ針路を取っていたとき、洪水は起きた。
 これが結果的に彼らの命を救った。トリカミ近郊へようやくたどり着けば、あたりは戦乱の跡、おびただしい死体が横がっていた。このときイタケルやオシヲは、カナン兵の剣を調達した。どこから敵が出現するかもわからないのだ。
 トリカミの里にある遠い篝火。それだけがこの月のない夜に頼りとなるものだったが、土地勘の明るいイタケルたちにはなんとか夜陰に紛れての行動が可能だった。
 遠目にもオロチ軍が占領しているらしいことは分かった。里の中の状況がどうなっているのか、どうにかして闇にまぎれて侵入する算段を練っている時だったのだ。
 複数の松明の光が里を駆け下りてきたのは。
 その兵たちが何者かを追っているのは明らかで、追われているのは里の者である可能性が高いとイタケルたちは判断した。そのために助勢に入ったのだ。
 しかし、そうではなかった。彼らが助けたのは、見る影もないほどやつれ、みすぼらしい姿となっていたモルデ、そして初対面のカーラという男の二人だったというわけだ。
 彼らはトリカミの里から一度距離を取り、およそ里の者以外は知られることのない洞窟に身をひそめた。
「ヤマトにカナンの仲間がいるってのか」岩の上に腰を下ろしているイタケルは、イライラと貧乏ゆすりをしながら言った。「カーラといったな、あんたもそうなのか」
「はい。私の先祖はおよそ四百年ほど前、ツクシを経てヤマトへたどり着き、そこへ定着しました」
「そういえば……」イタケルは首をひねるようにして言った。「アシナヅチ様が言ってたな。その昔、なんとかっていう方士が多くの民を引き連れて、このワの島国各地へ移ってきたことがあると」
「イスズ様の直接のご先祖です」
「イスズって巫女のことは聞いたことがある。ミモロ山の巫女と言えば有名だ」
「それで……」と、ニギヒが口を開いた。「そなたらはこれからどうするのだ。エステルと言ったな、カナンの姫は。その姫のところへ向かうのか」
「はい。それがイスズ様より与えられたお役目なれば」そういうカーラの眼は、しかし、どこか不安に定まらぬものがあった。自分たちを逃がしたイスズのことが案じられてならないのだった。本音では里へ戻りたいに違いない。
「おい、モルデ」イタケルは言葉を投げつけるような調子で言った。「てめーはどういうつもりなんだ」
「どう……とは?」
 モルデのそばにはスクナがいた。スクナは濡らした布と、採取してきた薬草で、彼の傷の治療を行っていた。
「エステルのところへ戻り、どうするかっていうんだよ。そのイスズが言ったようなことをエステルに伝えるのか」
 沈黙があった。洞窟の中では焚火が燃やされ、モルデの横顔を照らしていた。
「……おそらく、この戦いには勝てぬ」彼はやがて言った。「あのイスズという者がいうことが真実なら、われらはやり方を誤っていた」
「勝てないとわかったら、戦いやめましたってか。ふん、都合よくねえか。てめえらがやらかしてくれた戦のせいでな、いったいどれほどのワの民が死んだと思ってるんだ」
 また沈黙が落ちた。
「あんたらが来なければ、ミツハは死ななかった……」オシヲが枝で焚火を突き刺すようにしていた。「アシナヅチ様も」
「カナンもオロチも殺し合って滅びりゃいい。それが俺らの本音だ」
 イタケルの言葉に対して、モルデは何の反論もしなかった。できなかったというべきだろう。
「それじゃ、だめだよ」
 その声に一同は我に返ったような反応を示した。スクナがモルデの膝に薬草を押し当てながら続けた。「そんなにうまいこと、どっちも滅んだりしない。それどころか生き残った者が、また相手を殺すためにやって来る。……ツクシはずっとそんな日が続いていた。あたしがもともといたナの国だって……」
「その通りだ」ニギヒがうなずいた。
「あたしの住んでいた里は、みんなみんな、殺されてしまった。だから、父さんと母さんはあたしを連れて、大陸に渡ったんだ。殺し合いばかりじゃなくて、人を生かせる方法を探さないといけない。父さんはいつもそう言ってた。あたしが覚えることが得意なので、いろんなものを見聞きさせて、薬草のことや治し方を勉強させたのも、そのため……」
「そういうことだったのか」イタケルはしみじみと言った。「それでナの国には戻りたくても戻れなかったんだな」
「生きている者同士が戦いをやめないと、どうにもならない。戦いはとまらない。死んだ者のことばかり考えたら、どこもかしこも、きっとあたしのもとの里みたいになる」
 もっとも年少のスクナが発した言葉は、イタケルやオシヲの胸にある憎悪の立ち上がりを挫く力があった。オシヲは首にかけている朱の領布を手にし、見つめた。
 ――ミツハに誇れるおまえでいるのだ。
 スサノヲの言葉が脳裏をよぎり、オシヲは領布をぎゅっと握りしめた。苦しげに。
 ちっとイタケルは舌打ちした。腰から下げていた小袋を手に取り、それをモルデの目の前に放り投げる。「食え――干し肉だ。精をつけなきゃ、明日、歩けねえぞ」
 痩せこけた腕を伸ばし、モルデは震える手でそれを取り上げた。中を開くと、鹿の干し肉が詰まっていた。餓死をまぬかれる程度のものしか与えられていなかった男の喉が、ごくりと鳴った。取り出した肉を口に運び、食(は)む。幾度も幾度も噛みしめた。自然と、その頬に涙がひと筋ふた筋と流れ伝った。
「すまない……すまない……!」鳴き咽びながら、モルデは干し肉を食べ続けた。


 もともと白い肌が、今は雪のようだった。巫女たちは横たわる美しい巫女の死に顔を、ずっと見つめ続けていた。
「イスズ様……」
 その名が口々に、涙と共に呼ばれ続けた。
 イスズと血のつながりがあるシキ、イズミはことに大きなショックを受けていた。二人にとっては精神的にも、本当の姉のような存在だったのだ。
 カガチがイスズの首を絞めはじめたとき、幽体離脱や遠隔視によって状況を認識していた巫女たちは、もちろんイスズを救おうとして動き出した。しかし、その時点ですでに里は逃亡したモルデを捜索する兵士たちが走り回り、先刻までうたた寝に引き込まれていた見張りの兵士たちも目を覚ましていた。
 その状況で、彼女らは肉の身を動かして、イスズを救出に向かうこともできなかった。むろん駆けつけることができたとしても、間にあったはずもなかった。
 なす術もないまま、ただ彼女らの感覚はイスズの死を知覚するということしかできなかったのだ。
 白い布がイスズの遺体にかけられた。それを見つめるイズミは、思いつめた表情でつぶやいた。「かならずお心をお継ぎ致します」
 シキとイズミは知らされたのだ。彼女らの身体にも、はるか昔に渡来したカナンの民と同じ血が流れていることを。その血は混淆しながら、ずっと世代を越えて受け渡されてきたが、彼女らはその古い時代の事実を知らずに生きてきた。
 それで良いのだ、とイスズは言った。けれど、この事実を伝承してきたイスズの一族は、この日のあることを半ば予知し、そのとき果たすべき役割があることを自覚していた。そのことだけは心の核に収め、数百年を生きてきたのだ。
 その役目を果たすために自分の命を捨ててでも、というイスズの峻烈な使命感は、とくに若いイズミにとって目の覚めるような衝撃だった。なまじの霊能があるばかりに若くして巫女の地位に押し上げられ、まつりごとの中に組み込まれてしまった彼女は、ワケの国の中にあっても自分の存在意義を見いだせずにいた。誰か他の者でも良いのではないか――常にそんな想いがあった。
 能力として見たときには、アナトやシキの〝力〟には遠く及ばなかった。それだけに、いつの間にかひがみのような気持ちが根を張ってしまっていた。国の都合のために存在している自分。
 イスズの使命感は、それとまさに対比するものだったのだ。
 だが、そのような小さな思いにとらわれているときではない。
 自分のできることをする。
 すっきりと覚醒した意識の中に、強い意志が今は根を張っていた。
「アナト様……提案がございます」
 まだ泣き止まぬ巫女たちの中、イズミは口火を切った。その強い声音に触発されたように、巫女たちは悲しみの淵から少しだけ引き戻された。
「クシナーダ様、ナオヒ様、そしてアカル様もお聞きください。……わたしたちキビがカガチの支配を甘んじて受け入れてきた大きな理由は二つ。一つはクロガネ造りのためと称し、国の多くの者を人質として取られていること。そしてもう一つは、このトリカミを守るためでした。されど今、その理由のうちの一つはなくなった。そういうことではないでしょうか」
 それを聞いたアナトは、袂で涙をぬぐいながら応えた。「……じつはわたしも、まったく同じことを考えていた」
「アナト様も?」
「はい」
「わたしは信じてはいませんでしたが、あのヨモツヒサメは言い伝え通りの恐ろしい存在でした。あれを世に出さぬためにわたしたちは耐えてきたはず。あれが世に出てしまったのなら、わたしたちがカガチに従わねばならぬ理由の一つは、もはやありませぬ。そうではありませぬか?」
「イズミの言う通りです」
「ならば、あとはキビの国から徴収されて、タジマやイナバに送られている者たちを救い出せばよいのでは?」
「それで、わたしたちは自由になると?」
「カガチと袂を分かつべきです」
 キビの巫女たちは顔を見合わせた。
「でも、どうやって囚われている者たちを救出するのです」
「それは……」イズミの強い視線は、アカルのほうへ向けられた。「アカル様ならキビから徴収された者たちがいる山やタタラ場をご存じなのでは?」
 周囲の視線を受け、アカルはうなずいた。まだ顔は蒼ざめたままだ。「わたしは存じております……もともとはタジマもイナバも、わたしの父が治めていた土地ですから」
「ナツソ様……」次にイズミは、ナツソに視線を向けた。「コジマの水軍をカナンとの戦いから引かせ、囚われている者たちの救出に向かわせることはできないでしょうか」
 ナツソは驚くべき提案に目を丸くし、しかし、しばしの思案の後、はっきりと応えた。「わたしからの指示を伝えることができますれば」
「しかし、コジマの兵の中にはカガチの密偵も紛れ込んでいるのでは?」と、アナトが言った。「モルデがキビに秘密裏に交渉に来たときも、カガチには筒抜けになっていた」
「はい」と、ナツソはうなずいた。このキビの巫女の中でももっとも控えめな娘は、しかし、海の民の巫女らしい、奥深いしたたかさを秘めていた。「あの件があってから、わたしはコジマの水軍の中でも、とくに信頼がおける者たちと、そうでない者を組み分けるようにしたのです。非常に重要な伝達を行うときの合言葉も取り決めております。信頼できる者にさえ連絡が取れれば、そして囚われている者たちの場所さえわかれば、そのように動くことは可能です」
 コジマの水軍は、キビの中で唯一、今回の洪水での壊滅的な被害を免れていた。イズモの北面からの侵攻の一役を担って別働隊になっていたためだ。
「ただ、問題はどうやってそれを伝えるかです。わたしたちにはここを出る手段がありません」ナツソは残念そうに言った。
「それは……おそらく大丈夫だと思います」黙って聞いていたクシナーダが言った。「わたくしがかならずなんとか致します」
「ありがとうございます、クシナーダ様」アナトはクシナーダとナオヒ、そしてアカルの方を向き直った。「イスズ様の貴いご意志と同じく、この争いを収めるため、わたしたちも命を捧げます」
 四人のキビの巫女たちは、頭を深く垂れた。
「わたくしも同じ気持ちです」と、クシナーダは応え、みずからも深く頭を下げた。
 そんな若い巫女たちを見ていたナオヒが言った。「それだけでは不十分」
「ナオヒ様?」クシナーダを振り返った。
「そなたらがカガチに反旗を翻したところで争いはなくならん。カガチを止めねば」
「たしかにおっしゃる通りですね」
「あのモルデという者が首尾よくエステルを説得できたとしよう。しかし、カガチはかならずカナンを滅ぼそうとするであろうし、カナンが撤退したところで、カガチの思惑はこの島国全体の制圧にある。いずれは東国やツクシも争いに巻き込んでいくであろうな」
「カガチを倒さねば解決はしないということですね」アナトが言った。「この戦いと洪水でのキビの被害は甚大です。ですが、本国に戻れば、まだある程度の兵力は集めることができます」
「そのような悠長なことをしておれるのかな。そなたらはヨモツヒサメのことを軽く考えておる。あの者どもは人の憎悪や怒りを吸うだけではない、この地上にそれをばらまく」
「ばらまく?」
「ばらまかれた憎悪は人の中で増殖して、いっそう大きなものとなる。それをまたヨモツヒサメは食らう……。魔の循環じゃ。そうして肥え太った〝負〟の力は、たちまち破滅を引き起こすじゃろう。そこへ至るまで、多くの時間があるとは思わぬことじゃ。まして――」ふっとナオヒは笑った。「カガチを並みの兵力で倒せるはずもない」
「カガチはあの剣を得て、その〝力〟によって鬼と化しました」アカルが言った。「あの〝力〟がある以上、並大抵の手段ではカガチを制することはできません」
「剣を奪い取っては?」と、イズミが言った。
 アカルは首を振った。「もはやカガチは鬼神の〝力〟と一体化しております。剣を離すことができても、カガチにはもはや何の変化もないでしょう」
「鬼となった者を救う手段はない」ナオヒが珍しく重い口調で言った。「殺す以外は……。しかし、そのために兵を動かしても、おそらく今はヨモツヒサメの格好の餌食となるであろう。闇に取り込まれ、闇に使役され、よりいっそう世の破滅の助力となろうな」
「カガチを制することができるのはスサノヲだけです」クシナーダが言った。「スサノヲの帰りを待ちましょう。そのとき、いつでも行動を起こせるよう、準備を整えておくのです」
 沈黙が落ちた。その中、すっとアカルが立ち上がった。まだ足元もやや頼りない様子ながら、イスズのそばに行き、かけられた布をめくり、しばし、その顔を見つめていた。
「一つだけ、手段がございます。カガチのことは、わたしにお任せください」
 その言葉はイスズに対して囁かれたものでもあったようだった。


 ――そして。
 スサノヲは意識を取り戻した。建屋の隙間から差し込む朝の光が眼に痛かった。
 鉛が身体に詰め込まれたように重かった。呼吸をして、息を体内に送り込むことさえ、苦労が伴った。
「気が付いたか」
 声が聞こえた。逆光の中に人影が揺れた。

    4

「気が付いたか」
 その人影が発する声には聞き覚えがあった。そばにやって来ることで光の当たる角度が変わり、顔が見えるようになった。
 カイであった。ほかにもカナンの兵士たちが一緒にいる。皆、スサノヲの剣圧で吹き飛ばされた者たちだった。
 状況が見えず、スサノヲはしばらく自分たちがいる小屋の中を見まわしていた。
「このまま死んじまうのかと思ったぜ」
 気力を奮い起こさねば、身体を起こすこともできなかった。これが我が身がと疑うほど力がなく、四肢が重かった。
 ざーっと、スサノヲの胸元から何かが落ちた。不審に思ってみると、それは白い砂のようなものだった。指で触れ、確認する。どうやら塩らしかった。汗が乾いたのかと訝(いぶか)ったが、そんなことで説明できるような量ではなかった。
 見ると、塩が零れ落ちた胸元には、青黒い大きな痣のようなものがあった。ヨモツヒサメに貫かれた場所だった。
「なにがあったんだ。あんたがこんなふうになっちまうなんて」
 問われ、スサノヲは眼を細めて記憶をたどった。
 あの土石流が襲い掛かって来た瞬間。
 反射的にスサノヲは岩から岩へ飛び移り、洪水から逃れようとした。常人には不可能な跳躍だった。だが、ヨモツヒサメから与えられたダメージはあまりにも大きかった。抗いがたい脱力感に見舞われ、意識を失いかけ……。
 羽ばたき。
 ぐいっと上空へ引っ張り上げられる力。
 最後に認識したのは、それとともに見た大烏の面をつけた男の姿だった。その背には巨大な翼があった……。
 サルタヒコであった。その実体を一瞥するのは初めてだったが、スサノヲには自分の手を引っ張り上げているのが、いつもカラスを通じて話しかけてくるあの神だとはっきりわかった。
「俺はどうしてここに?」スサノヲは逆に尋ねた。
「どうもこうも、俺たちが進む先に転がっていた。岩の上に」
「助けてくれたのか、俺を」
 カイは戸惑ったように仲間を振り返った。「ま、まあな。あんたも俺たちを助けたっていうか、殺さずに済ませてくれたからな」
 スサノヲを見つけたときの彼らの狼狽や逡巡ぶりが目に浮かぶようだった。おそらくどうするか、話し合ったのだろう。背後に置き去りにしてきたはずのスサノヲが道行の先に出現したのも不可解だろうし、助けるという行為がカナンにとって利益となるのかという問題もあっただろう。
「ちょうど日が暮れて、この山小屋が見つかったところだった。たぶんこの峠を越えるとき、夜露をしのぐために作られたものだろう」
「すまない。ありがとう」スサノヲは礼を言った。
 彼らの戸惑いはさらに深くなったようだった。
 スサノヲは周囲を見まわした。そばに剣は鞘に収められ、立てかけられていた。
「剣はしっかり握りしめていたよ」
 カイたちは事情をさらに説明した。彼らは洪水が起きたとき、川からは距離を取って迂回路を進んでいた。トリカミが近づくにつれ、オロチ軍との遭遇の危険が増すからだ。それが結果的に彼らの身を守った。
「夜も明けた。俺たちはイズモのエステル様のところへ合流する。あんたはどうする――」と、言いかけたときだった。
 外の様子を隙間から窺っていたカナン兵のひとりが、「静かに」と声を上げた。カイたちは敏感に反応し、剣に手をかけた。カイも戸口に移動し、覗きこんだ。
 スサノヲも動かぬ体を叱咤し、剣を腰に収めた。
 信じがたいものを目撃したというように、カイが低い驚きの呻きのようなものを上げた。目がみるみる大きく見開かれる。「に……兄さん。兄さん!」
 叫んだときには彼は、戸口を大きく開いていた。外へ向かって飛び出していく。
 そこにはモルデとカーラがいた。

 奇跡的な再会を果たした兄弟の感激ぶりは、たがが外れたようなものだった。二人とも涙を流して抱き合い、存在を確かめ合っていた。カイはすでに兄は死んだと思っていたし、モルデもまたこのような場所で弟たち同胞に出会えるとは、夢にも思っていなかったのだ。
 だが、それにも増してカイらを驚かせたのは、先の洪水が南から攻め込んできたオロチ軍の大半を壊滅させたということ、そして――。
「失われた支族がこのワの国へ来ていただって?!」
 それは天地がひっくり返るほどの衝撃だった。
「イスズ様はあなた方が争いをやめるのであれば、ヤマトへあなた方をお迎えするお心積もりです」カーラはそう告げた。
 浅黒いカーラの顔立ちは鼻筋が高く、全体に容貌がカナンの民に似ていた。その顔をカイたちは食い入るように見つめていた。
「俺はエステル様に進言するつもりだ」やせ衰え、頬もそぎ落とされたようになっていたが、モルデの眼だけは強く輝いていた。「皆でヤマトへ行こう」
 もともとオロチとの戦いでは、すでに意見が割れていた彼らだった。あくまでも徹底抗戦を訴えるカイに対して、シモンやヤコブは半島へ撤退することを主張していた。ほかの二人は立場を決めかけていた。そのような状態の彼らでさえ、このプランは丸ごと包括してしまえるものだった。
「失われた支族がいるのなら……」
「そうだ。願ってもない」
「行こう、ヤマトへ」
 ワの地へ侵攻して以来、彼らは戦い続けていた。オロチとの厳しい全面戦争になり、敗退を続け、今や膿み疲れも生じてきていたのだ。いきなり希望の灯がともったように、彼らの眼に輝きが戻ってきた。
「ただ……」モルデは言いかけた。
「ただ、なんだ、兄さん」
「いや、このことはエステル様に直接お話する」
「わかった。とにかく本陣に合流しよう。ここからなら今日の内には本陣へ合流できる。スサノヲ、あんたはどうする。トリカミへ戻るの――」
 カイの言葉は途中で切れた。スサノヲは山小屋の建つ峠の見晴らしの良い場所に佇んでいた。イズモの地が遠望できる。眼下に斐伊川が流れ、その向こうに小高いいくつかの山が連なっていた。
 そこに彼の眼は、常人の肉眼では確認できない、異様なものを視ていた。その上空に暗雲の如きものがあった。それは恐ろしく禍々しい鬼気をはらみながら、生物のようにうごめき続けていた。そこから、まるで黒い雪のようなものが地上に降り続けているのが視えるのである。
 胸を締め付けるような不快感。口の中が金属的な味わいで満ちてくる。
 ヨモツヒサメに違いなかった。
 羽ばたきと共に、近くの木の枝にカラスが止まった。
 ――何ガ起キテイルノカ、ソノ眼デ確カメヨ。
 サルタヒコが伝えてきた。
「俺も一緒に行く」振り返ってスサノヲは言った。「カイ、エステルは無事なのか」
「あ、ああ。まあ、そのはずだけど」カイはいかにも歯切れが悪かった。
「どうした、カイ。エステル様に何かあるのか」と、モルデが尋ねた。
「うん……。まあ、会えばわかるよ。ちょっとこのところエステル様、元気がないっていうか……まあ、それは兄さんの顔を見たら、きっと元気になられると思うよ」
 スサノヲは、本音ではトリカミへ戻りたかった。クシナーダが今どうしているかと考えたら、居ても立ってもいられない心地になる。だが、カーラの話によれば、トリカミを占拠しているカガチとオロチ軍は、洪水の被害を受けた仲間の救助に追われている。態勢の立て直しに血眼になっているという話だ。
 そして、クシナーダもほかの巫女たちと共にトリカミにいる。
 今しばらくの時間の猶予はあるように思えた。身体さえ復調すれば、トリカミとイズモの間の距離など、さして大きな問題ではない、とスサノヲは判断した。ヨモツヒサメから受けたダメージがいかほどのもので、回復に要する時間がどれほどなのか、自分でもはかりかねていたが、今はイズモで何が起きているのか、見定めなければならなかった。
 そう決断せざるを得ないほど、嫌な予感がした。おそらくサルタヒコがカイたちの前にスサノヲを下ろしたのにも、深い意図があると思われた。

 谷間に沿った獣道を下り、一行は斐伊川に出た。
 そこはすでにカナンの勢力圏であり、彼らは防衛線を張っている守備兵たちの手厚い歓迎を受けた。ことにモルデの帰還は熱烈な喜びを持って受け取られ、彼らは現在のカナンの本陣のある場所へ案内された。小舟で川を下り、山を迂回する形で、夕刻にようやく辿り着いたその場所は、複数の小高い山のすそ野であった。(現、神庭谷付近)
 そこでスサノヲは信じがたい光景を見た。
 近づくにつれ、山々を揺るがすほどの歓声が轟くように聞こえてきた。それはまったく意外なことであり、オロチ軍に徐々に追い詰められ、総攻撃を受けて崩れた兵士たちの発するものとは思えなかった。
 山あいに陣を張るカナン軍には、まだこれほどの数がいるのかと驚かされただけではない。彼らは熱狂していた。まるで大戦(おおいくさ)に勝利したばかりのような、とてつもない興奮と喜びが里に満ち満ちていた。
「なんだ、これは……」
 カイやモルデでさえ、この狂乱ぶりには戸惑った。
 その中心にいたのは、刀傷を顔に持つ、隻眼の男であった。
「ヤイル……」モルデが呻くように言った。
 岩場の上に立ち、演説している背高い男はヤイルだった。彼の身振りで兵士たちは静かになった。
「聞け! カナンの民たちよ! 神に選ばれし同胞よ!」
 ヤイルの声が響き渡る。
「野蛮なる民どもの軍勢には神の鉄槌が下された! 我が予言通り、大水が彼らを滅ぼした! そなたらは見たであろう!」
 おお!! と兵たちの声が返す。
「これこそが神の御業である! 神は私にお約束された! はっきりとお言葉をくださったのだ! 我らにこの島国すべてをお与えになると!! こここそが神のお約束された第二の地! 恐れるものなど何もない! 我らには神がついておられる! 愚昧な異教徒どもなど恐れるに足らぬ! 聞け、民よ! カガチは神の火によって焼かれるだろう! これは神の御言葉である!」
 うおおおお――という轟きがまた湧いた。
「皆、耳を澄まして聞くがいい! タジマは間もなく裏切りに遭い、崩れ去るだろう! 真の神への信仰を持たぬ者どもの結束などなきに等しい! 彼らは憎しみ合い、結束は乾いた地の石くれのように脆くなる! もはや我らの敵ではない! キビもまた恐ろしい災厄に見舞われるであろう! 五つの地の邪教の巫女は互いに憎しみ合い、残らず死に絶える! 我らはもはや彼らを打ち倒した! その未来が我が眼には映じておる! そしてこの島国には我ら民が増え、ありとあらゆる地で栄え続けるのだ!」
 地の底から噴き上がってくるような熱気と共に兵士たちはまた怒号のような喚声を上げ続けた。目の当たりにして、スサノヲは珍しく血の気が引くような心地を味わっていた。うすら寒さに皮膚が粟立ってくる。見渡す限り埋め尽くす群衆には理性の働きは微塵もなくなり、盲信的な思い込みだけが膨張し、そしてこの地で一つの意志となって結びつき、さらにいびつで異常なものとなって、今まさに生れ落ちようとしていた。
 茜色に染まる空には、今は雲一つなかった。だが、スサノヲはその上空に視ていた。悪意に満ちた闇の存在を。
 ――オマエノ見タイ神ヲ見ヨ。
 ――オマエノ考エル神ダケヲ信ジロ。
 ――他ノモノハスベテ滅ボセ。
 ――認メルナ。
 ――否定シロ。
 ――否定シロ。
 ――ソシテ殺セ。
 ――殺セ。
 ――ソレガ正シイノダ。
 ――正義ヲ為セ。
 ヨモツヒサメから降りかかってくる思念は、ヤイルの身体にどんどん吸い込まれていた。彼の隻眼は異様な光を放ち、彼が見渡す群衆を魅了し、魂をわしづかみにして力づくで引きずり込んで行く。魔の渦の中に。
「おい! これはいったいどういうことだ!」モルデが近くにいた兵の肩をつかみ、問いかけた。
「どうもこうもあるか。ヤイルが予言したんだ。トリカミから来るオロチが大水で滅びると。それが的中した! ヤイルは予言者だ! 我らの新しい予言者にヤイルはなったんだ!」
 その兵士は涙まで流していた。喜びのあまり震えている。狂気じみた喜悦の顔だった。
「エステル様は?!」モルデは詰問した。
「エステル様?」
「エステル様はどこだ!」
 男はすっかり忘れていたというふうに、ようやく記憶を紡ぎ出した。「ああ、ああ、エステル様……エステル様か。たぶん幕屋にいるだろう」
 その男を突き飛ばすようにモルデは歩き出した。カイら帰還した兵士と、カーラ、そしてスサノヲもついて行った。歩きながらスサノヲは上空のヨモツヒサメに意識を向けていた。
 ヨモツヒサメのほうでもスサノヲのことは認識しているようだった。しかし、このヨモツヒサメはスサノヲに格別な関心はないらしく、攻撃的な意識は見えなかった。むしろヤイルを通じ、カナンの民を扇動することにのみ関心があるかのようだった。
 こんな化け物どもが世に出ていたら……凍りつくような想いが湧いた。
 地上に平和など望むべくもない。争いと憎しみが地に満ち、累々たる死体の横たわる、この世は本物の地獄と化すだろう。その世界ではもはや亡霊や怨念、死神ばかりが跳梁し、渦巻いているのだ。
 心底ゾッとなり、スサノヲは想像を頭から追い払った。
 こうなっては、なにがなんでもエステルにこの戦いを収めてもらわなければならなかった。
 幕屋には衛兵すらいなかった。誰もがヤイルの元に馳せ参じているのだ。その場には、置き去りにされた何か冷たくて空虚な印象さえあった。
 その中にエステルがいた。かつてとは見る影もなく憔悴した顔に、濃厚な憂悶を漂わせ、視線を足元に投げ出していた。人の気配は感じたであろう。が、彼女は眼を上げもせず、腰かけた姿勢のまま、銅像のように固まっていた。
「エステル様……」モルデが枯れたような声を発した。
 びく、とエステルの身に震えが走った。眼が上がり、そして宙をさまよい、目の前にいるモルデの姿を捉えた。
「……モ、モルデ……?」見えない糸に引かれるようにエステルは立ち上がった。「本当にモルデなのか? おお……おお……モルデ!」
 両手を捧げるように前に出し、エステルはまるでぶつかるような勢いでモルデに抱きついていった。

    5

 黎明の空に、二つの星の輝きがあった。クシナーダは収容されている家屋の戸口に立ち、その星の輝きを見つめていた。疲れ切った他の巫女たちより先に目覚めたアナトは、クシナーダのその様子に気づいた。
「おはようございます、クシナーダ様」
 他の者を起こさぬように気づかい、アナトは小さく声をかけた。クシナーダも挨拶を返してくる。
「しばらく前から不思議に思っておりました、あの星……」アナトは言った。「わたしたちがいつも見るものとは違っています。赤の星でもなく、一つ目の大きな星でもなく、輪の星でもなく……あのように明けの明星のそばで輝く星を私は知りませぬ」
「天津甕星(あまつみかほし)……スサノヲの星です」
「スサノヲ様の……? まだお会いしたことはありませぬが、直接天より降られたとお聞きいたしました。わたしたちワの民が伝える物語の荒ぶる神と同じ名を持たれている……まさしく霊妙なることでございます」
「スサノヲは破壊と再生をもたらす〝力〟だと、アシナヅチ様が申されておりました。そのため常に両面を持つと」
「両面?」ドキッとしたようにアナトはおうむ返しに言った。
「破壊者と創造者です。大陸の南方の土地では、シヴァという神が祀られています。破壊と創造の神ですが、そのシヴァは踊る神なのです」
「踊る神?」
「なたらーじゃ……とも呼ばれています。彼の踊りは世界を破壊し、そして再生させます。シヴァはその地でのスサノヲの働きの表現なのです」
 そのような知識を一体どこから得るのかと訝り、アナトはその考えが愚問に近いと思いなおした。クシナーダやアシナヅチの知覚能力は空間や時間を簡単に超えてしまうからだ。
「もしかするとカガチとスサノヲは一対のものなのかもしれません。天津甕星はきっとスサノヲの〝力〟が顕れる験(しるし)なのです」
「わたしはあの星に畏怖を感じます」
「はい。でも、わたくしは今、あの星を見て、安堵していたのです。あの輝きがあるということは、スサノヲの命の輝きもまた失われてはないということ」
「クシナーダ様の御力なら、スサノヲ様のご様子もご覧になられるのでは?」
 クシナーダは首を振った。「結界が張られ、聖域化されているこの里の中ならいざ知らず、今結界の外へ意識を飛ばせば、ヨモツヒサメに心を食われかねません。ただ感じるのです、スサノヲが苦しみながら道を進んでいることを」
「お怪我をされているご様子ですが」
「ただの怪我ではないでしょう。おそらくスサノヲはどこかでヨモツヒサメに遭遇してしまったのです。でなければ、あのような傷を受けるはずもありません」
「強いお方なのですね」
「はい……」
「それに離れてらしても、クシナーダ様はスサノヲ様のことを手に取るようにわかっておられるようです……その……」アナトはある言葉を呑み込み、別な表現を選択した。「クシナーダ様はスサノヲ様を信じておられるのですね」
 クシナーダはうっすらと微笑を浮かべた。その表情には愛する乙女の喜びのようなものが滲んでいた。そして、「はい」と静かに強く答えた。
「アナト様」
「はい」
「わたくしたちは踊らねばなりません」
 その言葉に、アナトはしばらく前にアゾの祭殿で受けた啓示と、そして現れたウズメの神霊から告げられたことを思い出した。
「御霊を集め、浄めよ……。魂で踊り、ワのヒビキでこの世を埋め尽くせ……」
「その通りです。このワの国では、わたくしたちが踊らねばなりません。ワの民は――いえ、人は――歌と踊りでつながり合えます。わたくしたちが昔からこの地でそのようにしてきたように、歌って踊って……天の岩戸を開き、そしてこの闇を払わねばなりません。でなければ、きっとこの国の子らの未来もありません」
「わたしも及ばずながらお力になりとうございます」
「アナト様なくして、きっと岩戸は開かれません。お願いいたします」
 クシナーダに頭を下げられ、アナトは狼狽した。「そ、そんな――クシナーダ様、お顔をお上げください」
 そんな二人のやり取りを、目を覚ましたアカルが見ていた。アナトはクシナーダよりも六、七歳は年上だが、まるで目上の者に相対するように尊敬の想いを隠さなかった。それはアナトらキビの巫女たちが、結果的にこのトリカミに与えた被害に対しての罪障感を持っているからだけでは決してない。
 それはアカルが一番よく知っていた。彼女が、最初にクシナーダにあいまみえたのは六年前だった。カガチがイズモに支配権を広げ、ワの民たちの反撥を抑圧するため、トリカミの巫女を毎年一人ずつ人質にし、挙句に殺すという蛮行に手を染めるようになり、二人目の巫女を連れ去ったときだった。
 アシナヅチから打診を受けて、アカルはトリカミに出向いたことがあった。むろんカガチを抑えるための何らかの手段を講じるためだった。この会談はカガチに察知されるところとなり、アカルはその後、タジマに幽閉されてしまうという結果を招くのだが、クシナーダに出会ったこと自体は、アカルにとって非常に衝撃的な出来事だった。
 まだ十歳くらいの幼い巫女に過ぎなかったクシナーダは、それ以前も以後もアカルが知るありとあらゆる巫女の次元を越えていた。すでに千年二千年という先を透視し、世界の裏側にいる人々とも交流を持つことができた。
「あなたはお母さんね」クシナーダは一瞥して、アカルにそんなことを言った。
「お母さん?」
「あなたがお母さんに見えるの。きっと大事な人」
 その瞳が見ているものは、アカルにはまったく想像もつかなかった。が、少女の精神がこの世の現実の枠をはるかに超越していることは、圧倒的な霊的なヒビキによって伝わってきた。
 だが――。
 アカルは、少女だったクシナーダの言葉の意味が今ようやく氷解したのを知った。イスズの命が消え去るとき――キビの巫女たちやナオヒが共有していたヴィジョンが、アカルにも飛び込んできた。
 少年カガチの母、それはアカルによく似た女性だった。冠島に漂着したカガチが、アカルの顔を見て驚愕したのは、大陸で失った母の面影をそこに見たからにほからない。それが理解できた瞬間、アカルの中でドミノが倒れるようにして、霊的な情報が解き放たれた。
 それはカガチと自分との情報だった。
 カガチは母親に愛されなかった。母親が溺愛していた兄を事故で死なせてしまったからだった。以来、母はカガチに感情のない冷めた目を向け、呪いのような言葉を与え続けた。
 おまえのせいだ。おまえなど生まれなければよかった。
 カガチは渇望する母の愛の代わりに、その呪詛を受け続けて生きてきた。やがて起きた戦乱で家族を皆殺しにされ、生き残り、辿り着いた島国で出会った巫女。
 そこにまた亡き母の面影を見てしまった。
 毎年巫女を殺し続けるカガチの深層にあるものまでもが、アカルには我がことのような痛みとしてわかった。
 自らの肉体に鬼の種子まで育てたカガチの根にあるもの。
 それは、愛されたい、生きたい、という熾烈なまでの欲望だった。その欲望こそが彼の鬼の根源であった。解き放ったのは霊剣の〝力〟だったかもしれないが、救いのない彼の行く末はいずれ似たところへたどり着いたであろうと思われた。
 そして――。
 それを救うのは自分でなければならなかった。
 アカルがカガチの命を救い、巫女としての予感に逆らい、彼を登用しようとする父にも警告を与えず、今の状況を作り出してしまったという責だけではない。ましてやアカルの面差しが、カガチの亡き母に似ているからというのでも、もちろんない。
 もっと根深いものが、アカルとカガチの間には横たわっていたのだ。
「あら、アカル様――」クシナーダはアカルに気づき、すぐに扉を閉めてアナトと共に室内に戻ってきた。「お目覚めでしたか。すみません、お寒うございましたか」
「いえ、大丈夫です」
「お顔色が随分とよくなられました」と、アナトも安堵の色を浮かべた。
「皆様のおかげです」
 他の巫女たちも話し声に誘われるように、次々と目を覚ました。昨日は彼女らの手でイスズを弔った。そのこともあったし、その前夜からの強行軍もあって、彼女らも疲れ果てていたのだ。
 しばらくして食事が運ばれてきた。トリカミの里の者が命じられて、囚われの巫女たちの食事のまかないを行っていた。食事を運んできたのはスクナだった。彼女は見張りに立っている兵士に戸口を開けてもらい、身に余るような大きな木の板に七人分の器を乗せて運んできた。野草や根菜がふんだんに入れられた粟の粥であった。
 スクナと目が合うと、クシナーダはその瞳の中だけで笑って、うなずいた。配膳している最中に、スクナに囁く。
「戻ったのですね。イタケルやオシヲ、ニギヒ様は?」
 スクナも小さく返した。「里の近くの洞窟に隠れてる。イタケルやオシヲは顔が知られているかもしれないし、ニギヒ様はあの通り目立つから」
「そうですね」くすっとクシナーダは笑った。「スサノヲはやはり一緒ではないのですね」
「うん。することがあると言って別れたまま」
「スサノヲの気配は北のほうにあります。たぶん、カナンの本陣のほうでしょう。そこへモルデとカーラという者が向かったはず」
「知ってる。会ったよ。じゃ、スサノヲも一緒かもしれないね」
「そんな気がします」
「おい!」見張っているオロチの兵が怒鳴った。「さっさとしろ! 用が済んだら出ろ!」
 彼らはカーラが食事を運んだあと、イスズが抜け出した前例から警戒を強めていた。
「ちょ、ちょっと待って」スクナが言った。背後に手を回し、腰紐にさしていた花の枝をクシナーダに差し出す。「これ、イタケルが持って行けって」
 まあ、とクシナーダは眼を見張った。「覚えていてくださったのですね」
 それは鮮やかな紅色をした椿の花だった。五弁の花びらが大きなめしべを包んでいる。その明るい色合いは、閉塞感が立ち込めていた室内の空気を変えた。
「生まれた日に、その季節の花を贈るのが、この里のならわしなんだ」と、スクナが兵士に説明した。
 子供にそう言われ、兵士たちは戸惑いつつ、返す言葉もなかった。
「クシナーダ様は今日がお生まれになった日なのですか」と、アナトが尋ねた。
「はい。とても祝っていただく状況ではありませんが……わたくしはこの一年でもっとも日が短い日の生まれです」クシナーダは眼を細めて、椿の花の色と香りを味わった。「ありがとう、スクナ。イタケルにもお礼を言ってね」
 スクナはにっこりしてうなずいた。クシナーダは立ち上がる際に、その耳元に顔を自然に近づけてまた囁いた。
「この花弁がすべてなくなった夜、わたくしたちはここを出ます」
 スクナは返事をしなかった。が、聡明な彼女は眼だけで了解したことを伝えてきた。
「また、ごはんを持ってきて頂戴ね」
 そう言って送り出すクシナーダに、「うん」と返事をしながらスクナは出て行った。
 子供ゆえに気を許しているということもあるのだろう。兵士はさして訝りもせず、スクナが出ると扉を閉めた。
「さあ、いただきましょう」と、クシナーダは明るい声で言った。
「クシナーダ様……今の子と何を……」近距離にいたアナトは、わずかながらやり取りを耳にしていた。
 クシナーダは眼を悪戯っぽくきらきらさせながら、指で押し黙るように合図して、椿の枝を家屋の隅にある間口の狭い土器に差した。それに水も差しておく。それからそっとつぶやいた。「スクナはこれから毎朝毎夕、食事を運んできてくれるでしょう。椿の花びらを状況に合わせ、一枚ずつちぎっておきます。すべてなくなった夜にここを出ましょう。そのための合図に使うのです。いつも話せるとは限りませんから」
「え……しかし、どうやって」
「心配いりません。スクナが戻っているのなら」
「え……」
「でも、花がかわいそう……」と、クシナーダは椿を振り返った。「本当は椿は花びらを散らさず、落ちるときは花が丸ごと落ちるんですけどね」
 巫女たちはきょとんとしていたが、一人、ナオヒだけがにやにやしていた。
「ナオヒ様、このようにお謀りになって、スクナの身を守るためにニギヒ様と共に里の外へお出しになったのですか」と、クシナーダは視線を送った。
「そなたほどではないがの」ナオヒは細い腕で器を取りながら言った。「なんとなく、あの子を逃がしたほうが良いと思うたのじゃ。スサノヲとの縁が深そうじゃしな」
「やっぱり」クシナーダはにっこりとした。「ナオヒ様はお人が悪い」
「そなたほどではない」
 二人は声をあげて笑った。他の巫女たちは戸惑いながら、苦笑のような表情になった。


 獣のような唸り声がしていた。
 トリカミへ来て、三度目の夜だった。ヨサミは毎夜、その唸り声を耳にしていた。いや、もしかするとイスズという巫女が殺されて以降というべきなのかもしれないが、トリカミに根を張って以来、あきらかにカガチの様子はおかしかった。
 常識では推し量れないほどの体力を持つカガチだったが、それ以前はいかなる戦があっても、眠れないなどということはなかった。戦闘で高揚した肉体を持て余したようにヨサミの身体を抱き、そして熱を冷ますと満足して眠りに落ちた。それは飢えた猛獣が腹を満たして眠るのと同じようものだった。それが常だったのだ。
 しかし、トリカミに来て以来、カガチはおかしくなってしまった。熟睡することもできず、何かに責めさいなまれるように、浅い眠りの中でうわ言を口走るようになった。母さん、というはっきりとした声もヨサミは幾度も聞いた。そしてまた獣のような唸り声を発して目覚め、不機嫌に荒い息とぎらついた眼を周囲に放つ。そんなことばかりだった。
 その夜、ヨサミは不安に襲われた。隣で身体を横たえているカガチは、もはやうわ言のレベルではない、はっきりとした苦悶を表わす声を上げ始めたからだ。肉体を蝕む不治の病の痛みにでも襲われているように、彼は唸り、のたうち、吠えた。
「カガチ……カガチ様!」褥を共にする者が死ぬのではないかという恐怖に襲われ、ヨサミは彼の身体を揺さぶった。
 カッ、とカガチは眼を開いた。充血しきった眼だった。
「いかがなされました」
 その眼が動き、ヨサミの顔を捉えた。ううう、という唸りと共にカガチの身体は跳ね上がり、そして一瞬にしてヨサミの身体を組み伏せていた。
 今下を見ていたのに、あっという間にヨサミの眼は上を見ていた。そこにカガチの鬼の形相があった。彼のものすごい腕が伸び、万力のような両手が首に巻き付いてきた。大蛇が瞬間的な動きで敵を締め付けるようなものだった。
 ぎゅうっと締め付ける力が首を圧迫し、ヨサミは両手両足をばたつかせた。苦しいというようなレベルではなかった。涙や血液といったものが、頭部の涙腺や毛穴から圧迫されて噴き出しそうになる。頭が破裂すると本気で感じた。
 だが、すぐに意識が遠のいて行った。
 死ぬのだ、とヨサミは思った。すとんと胸に落ちたのは、この怨讐にまみれた自分にふさわしい最期だということだった。
 顔にかすかに何かを感じた。それは首を絞めながら目の前に迫ってくるカガチの顔から落ちてくる涎や、そして――涙であった。
 この人も寂しいのだ。
 悲しいのだ。
 辛いのだ。
 そう思った。
 いいよ、殺して。
 わたし、あなたに殺されるのでいい。
 ヨサミは死の淵に落ちながら、どこにそのような力があったのか、その両手でカガチを抱いていた。いや、カガチの巨躯は彼女の両腕の長さでは、とうてい抱きしめることなどできなかった。そっとその胴に手を回すことしかできなかった。
 しかし、それは彼女にとって、カガチを抱くという行為だった。
「うおッ――」カガチが怯えたような声を発し、突き飛ばすように離れた。
 一瞬あと、呼吸と血流が戻った身体が、反動のように激しく咳き込み始めるのを感じた。うっ血で青黒くなりはじめていた顔に血の気が戻ってくる。涙も止まらなかった。
 ややあってヨサミは、そこに見た。
 鬼神が吠え、壁に頭や拳を打ち付ける様を。カガチの力が強すぎ、建物自体が倒壊しそうだった。
 ヨサミは褥を抜け出し、荒れ狂うカガチに近づいて行った。
 そして、その背後から彼を抱きしめていた。
 なぜ、そんなことをしたのか、自分でもわからないままに。

2015_04_04



     1

 濃密な闇が視野を覆い尽くしていた。
 まるで深い淵を覗きこむような、底も先も何も見えない闇である。
 その世界でスサノヲは、わずかばかり、自らの身体が発する光だけを頼りに歩いていた。そう、彼の身体はぼうっと微光を放っていた。直観的に思ったことは、それは彼が生きているからこその光であり、周囲のすべては死の闇の底にあるのではないか、ということだった。
 すべてが死せる世界。
 完全なる沈黙。完全なる闇。
 その〝死〟のあまりの濃厚さ、重さに、いつしかスサノヲは自分自身がそれに呑まれる恐怖を味わっていた。そして、それが彼を激しく動揺させた。
 ――死?
 スサノヲは自分が死ぬということを、これまで一度も想像したことがなかった。常人と異なり、彼は超人的な肉体と力を与えられていた。ありきたりな脅威の前に、自らの存在が危うくなり、消え去る危険など、感じたことがなかった。
 が、この世界だけは違った。
 闇は果てしなく、どこへともわからず続いていた。いつまで歩けばよいのか、それすらわからない。そのためか、いつしか自分がこの闇の中に溶けて消えてしまうような、そんな恐怖がじわじわと心を侵食していたのだ。
 長い長い洞窟のようなものだった。しかし、距離感はまるでない。時間感覚もなくなる。どれだけ歩いたかということも一切想像できず、いつまでたっても闇が払われる気配もなかった。
 苛立ちと焦り。
 そして恐怖。
 スサノヲの心が乱れ始めてしばらくすると、闇に変化が生じた。
 初めて別な存在の気配が感じられ始めたのだ。
 ――助ケテクレ。
 自分のほんの間近、頬や耳に接触するような感覚で、すうっと冷たい空気が流れていく。
 ――痛イヨ痛イヨ。
 子供の声。
 ――坊ヤ、アア、坊ヤ!
 母親の悲痛な叫び。病で子を死なせてしまった悲しみが、なぜかはっきりとそれと分かる形で伝わってくる。声の主の感情と状況が、そのままスサノヲに伝染してくるのだ。
 と、堰が切れた流れが押し寄せるように、大量の思念が彼にまとわりついてきた。
 ――苦シイ。
 ――熱イ! アア、体ガ燃エル!
 ――水ヲ……。
 ――許サナイ。
 ――寒イ。
 ――呪ワレヨ。
 それは声というより、想いだった。無数の人間の想いが、その人々が置かれている状況とともに生々しく伝わってくる。
 勝利と敗北。栄華と荒廃。
 この地上に勃興した多くの国々と、そこで生きた人々の人生、想い。
 それが今、とてつもない情報量となって、スサノヲの中に入って来ていた。彼らの悲しみや憎しみ、絶望、恐れの大群となって、怒涛のように押し寄せてくる。それは氾濫する大河の水を身一つで受け止めるようなものだった。
 その波涛はスサノヲを呑み込み、彼を粉々に粉砕しようとした。
 ――死ニタクナイ。
 ある一つの想いが、スサノヲに憑依した。それは彼自身が強く想い抱いた感情そのままだったからだ。
 ――ココデ、俺ハ死ヌワケニハイカナイ。
 走り抜ける無数の騎馬、馬車。戦乱。
 スサノヲは剣を抜いた。そして襲い掛かってくる兵士たちを切りつけた。だが、それはいつもの超人的な彼の技でもスピードでもなかった。鉛でも四肢に入っているのではないかというような、恐ろしく鈍重な動きだった。いや、彼にはそう感じられた。
 スサノヲが実感しているのは彼自身の人生ではなく、彼に憑依したある兵士の人生だった。強大な国家の侵略を受け、滅びゆく国。それに抗った男の想いが、そのままスサノヲの意識を占領してしまっていた。
 男には愛する妻と子たち、そして老いた母親がいた。そのすべてを守ろうとしたが、津波のように押し寄せる巨大国家の軍勢の前では、あまりにも非力であり、消し飛ばされてしまう程度のものでしかなかった。矢に射抜かれ、痛みに耐え、押し寄せる騎馬隊に立ち向かった。が、槍が彼の胸を貫き、打ち倒された彼の胴体と頭部を、荒馬たちの蹄がぐしゃぐしゃに潰してしまった。
 ――死ネナイ。ココデ、俺ハ死ネナイ。
 原形をとどめぬほど損傷した肉体を離れた男の魂は、守るべき家族のもとへ飛んだ。が、魂だけとなった彼の目に映った光景は、侵略兵によって子らと母がたわむれに殺され、妻が犯される姿だった。
 絶叫した。それは魂の咆哮だった。
 スサノヲは男と共に、血の涙を流していた。愛する者を殺戮され、奪われ、愛した国もことごとく蹂躙される、その絶望と呪詛、自らの無力さへの呪いが、まるごと憑依した。
 怨霊となって――。

 ――スサノヲ。

 光が。
 あまりにも広大で濃密な闇の中に、光が差した。
 まったく無意識に、スサノヲは自分の胸にある、クシナーダに与えられた領布(ひれ)をつかんでいた。右手には剣を持ちながら、左手ではその領布を。
 領布は明るい光を発していた。その光が、スサノヲを怨霊となった男の意識から切り離した。
 とたんにスサノヲは、たった今まで感じていた圧倒的で濃密な、〝負〟の感情の海から浮上していた。だが、それは危ういものだった。
 彼を呑み込んでいた大洋の中をかき分け、荒波の上にかろうじて這い出たようなものだ。
 ともすれば、海中に潜む怨霊たちは、スサノヲの足を引っ張ろうと手ぐすねを引いて待っている。それにもう一度つかまれてしまったらおしまいだと感じた。
 クシナーダ……。
 彼女の姿、彼女の仕草、彼女の笑顔。
 スサノヲは本能的にそれを想った。岩戸を抜ける前、胸に手を当ててくれた。その彼女の掌から伝わってきた熱さを想った。
 そして剣を鞘に納め、代わりにその領布を振った。

 闇が切り払われた。

 そこには、今や彼から分離された無数の怨霊たちが渦巻いている死の渕が見えた。
 彼らはそこで嘆き、悲しみ、そして呪い続けている。それはおぞましいというより、あまりにも悲哀に満ちたものに思えた。彼らはすべて一様に、救いを求めていた。
 考えるよりも先に、スサノヲは領布を振った。
 それは浄化の光を降らせた。それは霊送りを行ったとき、クシナーダが天界より降らせた、あの白金の粉のような光だった。
 シャンシャンシャンシャンシャン――。
 鈴の音が聞こえた。
「ヨミの亡者たちよ、お前たちの還るべきところへお還りなさい」
 女の声が響いた。そして、さらに高く鈴の音が響き渡った。そのヒビキは、スサノヲが振りまいた光の粉を拡散させ、見渡すかぎりを埋め尽くすように覆わせた。それを浴びた亡者たちは真っ黒な塊から、ぽつぽつとほの明るい光へと変じた。
 その連鎖が見渡す限りへと広がり、あたりは眩いほどになった。無数の光の珠が、怨霊の海を離れ、上空へと昇って行く。
 上のほうに光の穴が開いた。そこへ光の珠は、吸い込まれていく。
 そして、すべて消えてなくなった。
 鈴の音が止まった。
 見ると、その鈴を鳴らしていたのは巫女たちだった。七人、いつの間にかスサノヲの周囲に広がって佇んでいた。いずれも清らかな乙女たちだった。
「ようこそ、ヨミの国へ」もっとも年嵩に見える乙女――といっても、二十歳にもならないだろう――が言った。クシナーダのそれに似た声だった
「そなたらは……」スサノヲは彼女らを一人一人見ながら言った。
「わたしはアワジ。クシナーダの姉です」
「アワジ……」衝撃を受けた。「カガチに殺されたという」
「驚くにはあたらないでしょう。ここはヨミの国。亡くなった者がいて当然」
「そ、それはそうだが……」
「他の者たちも皆、トリカミの巫女だった者たちです。皆、カガチによって命を奪われました」
 呆然と見まわすスサノヲを、無邪気な笑顔が取り囲んだ。クシナーダやミツハと同じような、心地よいヒビキが周囲からふわっと寄せてくる。
「そうか。そなたらがこれまでカガチによって命を奪われた七人の巫女……。しかし、なぜこのような亡者たちの世界に」
「わたしたちはある役目を持ち、ここに留まっておりました」別な一人が答えた。
「役目?」
「それは、あなた様をお待ちすること」また別な一人が。
「俺を?」
「いずれ訪れるあなた様を助けるため」
 問答の受け渡しが続く。
「わたしたちにはわかっておりました。失われるわたしたちの命が、きっと未来を作り出すことを」
「そのために天に還ることなく、ここに留まっておりました」
「あなた様に真実をお伝えするために」
「真実とは?」スサノヲは巡ってきた言葉の元のアワジを見た。
「それを知るために参られたのではないのですか」
 アワジがそう言うや、巫女たちはすうっと引き寄せられるように、それぞれの姿がアワジのもとへ重なり合って行った。彼女らは一つとなり、そして真っ白な光となった。目を開けていられないほどの輝きの中、スサノヲは自然と膝を折っていた。
 それが誰なのか、問うまでもなく、わかったからだった。

 光が収束して行き、そこに顕現したのは、母・イナザミだった。

 このヨミの世界を壊すのではないかというほど、巨大な光の結晶としてイザナミはその存在を顕わした。
 ――いとし子よ。
 そのヒビキ。慈愛に満ちたそのヒビキを受けるだけで、スサノヲは抑えていたものが堪えきれなくなった。仰ぎ見る目に、涙腺が決壊したように滂沱と涙があふれた。
 ――母よ。
 ――よう参られた。このヨミの国へ。
 ――母さん……。
 これほどの人間的な情がどこにあったのかと、スサノヲは自分で訝(いぶか)った。およそ乾ききった、人としての情の失われた人形のような存在として、自分が地上に生まれたと感じていた。このような存在に、どのような存在価値があるのか。何の楽しみも、喜びも、逆に憎しみさえも抱くことのない人形に。
 ――そなたは心なき、魂なき人形ではないぞえ。
 イザナミが告げた。
 ――ここへ参られよ、それがわかる。
 イザナミが両手を広げた。
 それを見た瞬間、スサノヲはそれこそが自分が心底求めていた瞬間なのだと知った。
 ――母さん。
 スサノヲは小さな光の珠となった。それは赤子のような……いや、胎児のようなカタチをしていた。勾玉のような。
 それは回りながら、すっぽりと大きなイザナミの両腕の中に抱かれた。
 そこは暖かく、安らぎに満ちていた。
 そこで彼は、ほんの小さな小さな、一粒の細胞となった。それが二つに分かれ、次には四つに分かれ、次には十六に分かれて……細胞分裂を繰り返して行った。やがてそれはまた、勾玉のようなカタチとなり、そして胎児へと成長して行った。
 母の海だ――と、スサノヲはとろけるような安らぎの中で、自分がかつてなく充足されていくのを感じた。母の胎内で成長しながら、彼は思い出していた。このヨミで体験した無数の人生を。
 それはすべて、彼の人生であった。
 遥か歴史が刻まれる以前から蓄積されてきた無数の人生。幾度も幾度も生まれ変わりながら、時に喜びを、時に悲しみを得ながら生きてきた、当たり前の人としての人生。
 彼らすべての人生は、天界にたった今もあるスサノヲの大きな意識の一部として、この地上で生きてきたものだった。時には男として、時には女として。彼らすべての人生が、細胞の一つ一つとなって、今ここにあるスサノヲの中に組み込まれていった。
 そうすることで、スサノヲは真実、〝人〟となった。
 それは、新たな〝誕生〟の時であった。

 気がつけば、スサノヲは元の姿となり、イザナミの前にひざまずいていた。
 イナザミは圧倒的な光のピラミッドのような存在ではなくなり、普通の人の形をして岩の上に腰かけていた。そして周囲の石段には、先ほどの七人の巫女たちが控えていた。
「いとし子よ」と、イザナミは言った。「よくぞ務めを果たされた」
 人のカタチとなったと言っても、その声音は厳かで、そして同時にやさしくもあった。
「務め?」
「そなたは思うておったろう。なにゆえに自分は、当たり前の人として地上に生まれなかったのか」
「はい」
「このヨミには無数の人の記憶が存在しておる。情報といってもよいし、残留思念といってもよい。今そなたが浄化し、天に送った者たちの情報は、そなた自身に由来する者たちの想いじゃ。それは浄化されぬまま、このヨミに留まっておった」
「わかります」
「それは普通の人にはできぬ技じゃ。クシナーダのような者たちでさえ、生身でこのヨミに立ち入ることはかなわぬ。おそらくヨミに入ったとたん、気が狂ってしまおう。当たり前の人は、ありとあらゆる悲嘆を一身に背負うことはできぬ」
 イザナミの語りとともに、ふっと幻影が現れた。三つの十字架。その中央の十字架にかけられ、苦悶に顔をゆがめる男。――ゴルゴダの丘――という言葉が、スサノヲの脳裏をよぎった。イザナミの想いによって、惹起されてきた情報だと分かった。
「過去、このヨミに立ち入った者は、何らかの形で特別な〝力〟を備えておった。そなたの場合は、このヨミを訪れるため、特別に鈍感に作られたのじゃ」
「鈍感……?」あまりにも意外な言葉に、スサノヲはあっけにとられた。
 イザナミはおかしそうに微笑(わら)った。
「人としての情に共鳴しやすい者ほど、ヨミは恐ろしい世界じゃ。残留思念を際限なく引き寄せ、その者を崩壊させてしまう。そうならぬため、そなたはきわめて共鳴しにくい存在として、この地上に降りたのじゃ」
「地上に降りた瞬間から、はっきりとした確信がありました。自分はヨミに行かねばならない。そして母に会わねばならないと。その想いだけは、絶対の使命として胸にありました」
「それはそなたがその役目を負うて地上に降りたからじゃ。わたしに会うことこそが、そなたのお役目だったのじゃ」
「なんのために、それが必要だったのでしょう」スサノヲは激しく戸惑っていた。「いや、俺は自分がこの世にある意味を知りたくて、ここへ参ったのですが、母に会うことだけが自分の存在意義なのですか」
「そう急くな」イザナミは手をひらひらとさせた。「そうよの。もう一つ、重要な役目があるぞ」
「なんでしょう」
「ここへ来て、肩を揉め」
「は?」
「それも重要なお役目じゃ」
 七人の巫女たちがクスクス笑った。スサノヲは母にからかわれているのだと知ったが、「さあ、早う」と催促され、立ち上がり、石段を登り、母の背後に回った。そして肩を揉み始めた。
「せっかくこうして人のカタチを得ておるのじゃ。ちょっとは人の親子らしいこともしておかねばのう。おお、良い気持ちじゃ」
 イナザミに年齢はなかった。言えば、肉体的な凝りなどあろうはずもなかった。七人の巫女と同じように若々しく、それでいて滲み出る雰囲気の大きさは、まぎれもない母性そのものだった。
「母さん、あの、さっきの続きですが……」
「相変わらずせっかちなやつじゃ」
「すみません」
「はっはっは。そしてくそ真面目じゃ。さきほど、そなたは二つのことを問うたな。一つはなんのためにヨミに来て、わたしに会う必要があったのか。そしてもう一つは、自分の存在する意味」
「はい」
「ヨミを訪れねばならなかったのにも二つの理由があるが、一つはわたしを慰めるためじゃ」
「慰める?」思わず、手が止まった。
「おお。今ここでこうして肩を揉んでおることもその一部というわけじゃ」
 なるほど…と、半ばほど納得して、スサノヲは肩揉みを再開した。
「わたしはこの星のすべてを生み出したヒビキじゃ。人はそれを〝母〟〝地母神〟として認識しておる。しかし、創造の過程では常に澱のようなものが生まれる。人で言えば、そなたが先ほど浄化した残留思念がそれじゃ。それはすなわち、わたし自身の澱でもあるのじゃ。このヨミはそうした世界じゃ。そなたがそうであるように、わたしの大元のヒビキも天界にある。が、ここにあるわたしはきわめてネの世界のヒビキに近い。どういうことかわかるか?」
「つまり、人間に近いということでしょうか」
「その通りじゃ。そのため、時として慰めも必要なのじゃよ」
「その役目を俺が?」
「他に誰がおろう」
「はい」
 そう言われれば、受け入れるしかなかった。
「母を慰める者がいなければ、どうなるのですか」
「恐ろしいことになる」
「恐ろしいこととは……?」
「まあ、考えてもみよ。どのような時代、どのような家族でも、母が崩壊してしまえばどうなるか」
「…………」
 スサノヲが沈黙を守っていると、そばで見守っていたアワジともう一人の巫女が言った。
「子は愛と居場所を失い」
「男は暴走をやめず、あくなき破壊を繰り返す」
「それが地球規模で起こると思えばよい」と、イザナミが引き継いだ。
「それは……母さん、今、とんでもないことをさらっと言われましたね」
「真の創造は陰の中、母性の中にこそある。抑えを失った陽の力、男の力は往々にして破壊に働くものじゃ」
「俺がヨミを訪れなければならなかったもう一つの理由は?」
「そなたがまっとうな〝人〟となるためには、ここへ来る必要があった。それは先ほどの体験で分かったであろう。かの者たちの人生を得ることで、そなたは完全となる。かの者たちの情報は怨念ばかりではなかったであろう。当たり前に生き、そして死んでいった者たちの人生の記憶じゃ。そのすべてが今、そなたの中にあろう」
「はい」
「わたしも慰められた」イザナミの片手が、そっとスサノヲの手の上に置かれた。「そなたを今一度身ごもり、そして生んだ。そうすることで、わたしも満たされ、そなたも満たされた。そうであろう?」
「はい」
 不覚にも涙が滲んできた。母の優しさに触れることで、スサノヲは自分の中に欠落していた部分、風穴のように感じられたむなしさがなくなっていることを知った。
「もうよい」と言われ、スサノヲは母の背後を離れた。そして、また前に膝を折った。
「これでそなたは完全な〝人〟となった。もはや好きに生きるがよい」
「え?」
「この世に生きる意味、存在する意味。そなたはそう言うたな」
「はい――」
「そのようなことは自分で決めよ」
 あまりにも意外な言葉に、スサノヲは返す言葉を失った。
「何もかも他に答えを求めようとするのは怠慢で、甘えじゃ。なんのために人に自由意思が与えられておると思うのじゃ」
「いや、しかし――」
「スサノヲ様」思い余ったようにアワジが言った。「今、地上は大変なことになっております」
 アワジの後、巫女たちは言葉を引き継いでいった。
「ヨモツヒラサカの結界が破られ、ヨミに閉じ込められていた禍津神、ヨモツヒサメが外に出てしまいました」
「ヨモツヒサメは人の悪しきものが凝り固まった存在」
「この地の底には、人が決して手を付けてはならぬ〝死の力〟があります。ヨモツヒサメはその化身でもあります」
「数え切れぬほどの人が死ぬでしょう。これまでの戦いにも増して」
「ヨモツヒサメを放置すれば、世界は滅びます」
「クシナーダもまた、今はカガチによって連れ去られました」
「クシナーダが?!」血相を変え、スサノヲは立ち上がった。
「さて、いかがする?」と、イザナミが問うた。
「母さん、俺は地上に戻ります」
 イザナミは笑い出した。呆然とするスサノヲに、イザナミは言った。
「そなたは今、何を考えた」
「それは――戻って、クシナーダやみんなを助けなければと」
「ならば、それが今のそなたの存在理由ではないのか」
 その言葉は、スサノヲの胸を突くものだった。
「はい……」スサノヲは一度そう答え、そして目を上げ、もう一度、強く言った。「はい!」
 彼はイザナミ、ほかの巫女たちを見つめ、そして最後に今一度、母を仰ぎ見得た。
「ありがとう。母さん」そう言うと、彼は踵を返し、もはや振り返ることもなく走り出した。その姿はすぐに闇に呑まれ、消えてなくなった。
 見送ったイザナミの瞳に憂悶が映し出され、揺らいだ。
「……いとし子よ、すまぬ。せっかく〝人〟になれたというのに」母の顔がゆがんだ。その顔を隠すように右手で覆った。「そなたの役目は本当はあと一つ……。じゃが、あれはわが澱……わが怨念……」

     2

 岩戸を抜け出ると、愕然となる光景が目に飛び込んできた。足元を浸している水の冷たさ以上に、スサノヲは心臓が一瞬にして凍りつくような胸苦しいショックを受けた。
 二つの横たえられた亡骸(なきがら)――それが死体だということは、血に染まった姿で一目でわかった――。
「アシナヅチ……ミツハ……?」
 スサノヲは篝火の中でゆらめくその横顔を認め、周囲を見まわした。亡骸のそばにあるのは、打ちひしがれたイタケルとオシヲだけだった。クシナーダの姿は、むろんない――。
「スサノヲ……」暗い眼をしたイタケルが振り返る。
 水を撥ねて駆け寄り、アシナヅチの横にひざまずく。その白髪と白髭に覆われた、深い皺の刻まれた顔は、冷たい空気の中で凍ってしまっているようだった。
 ――そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を。
 その顔が、あの人を食ったような悪戯好きな老人の笑みを浮かべることは、もうなかった。
 隣に横たわるミツハも、その白い顔は今はまったく血の気の失せた仮面のようだった。
 ――わたしも、とてもうれしゅうございました。
 あの愛らしく無邪気な乙女の笑顔は、二度と見ることはできないのだと知らされた。
「カガチがここへ来たんだ……カナンのやつらを追いかけて」イタケルが言った。「クシナーダも連れて行かれちまった。すまねえ」
 ぽたっ。
 地についたスサノヲの手の甲に、生ぬるい水滴が落ちた。それはスサノヲ自身の涙だった。幾度も生前のアシナヅチやミツハの、生き生きとした言動や仕草がよみがえってくる。そして、それがよみがえるたび、彼らがそれを見せてくれることは、もう二度とないのだと思い知らされる。
「これが……悲しみか」スサノヲは、自らの顔を流れ落ちる涙に触れ、言った。そしてまた、その悲しみの底から突き上げてくるものを感じながら拳を握った。「これが怒りか……」
「俺は許さない」魂の抜け殻のようなオシヲは、ミツハの笛を握ったままつぶやいた。「カガチもオロチの連中も……それにこのワの国を引っ掻き回したカナンのやつらも……絶対に許さない。あいつらがミツハを殺したんだ」
 それは今のスサノヲには、わかりすぎるほどわかる感情だった。ヨミで彼にもっとも強く憑依してきた男の生とその死にまつわる怨念。
 それと同じものをオシヲは抱き、そう、そしてイタケルもきっと、ずっと抱き続けてきたのだ。守りたい、愛すべき人を奪われた者として。
「イタケル……俺はヨミでアワジという娘に会った」
 その言葉は、気落ちしていたイタケルに活を入れた。
「アワジに?」振り返る彼の眼の焦点が合った。
「他の娘たちも、皆、ヨミにいた」
「なぜ、アワジたちがヨミに……」
「役目があったのだと。俺を待っていてくれた」
「アワジが……」
「アワジたちは言っていた。失われる自分たちの命が未来を作り出すと」
 スサノヲの顔を見るイタケルの眼に、みるみるまた涙が溢れてきた。
「アワジと俺は……ミツハとオシヲのような関係だった。兄妹同然に育って……そんで、俺はアワジのことが……」
「だから、おまえはアワジの妹のクシナーダのことを見守っていたのだな」
 うん、うん、とイタケルはうなずいた。そして、戸惑うようにアシナヅチのほうを見た。「アシナヅチ様も似たようなことを言っていた。失われるものなど何もないと……」
「イタケル、オシヲ」スサノヲは呼びかけた。
 オシヲも虚脱したような眼をスサノヲに向けた。
「俺はヨミで自分の過去の多くの人生を知った。今、この身としてある前の数多くの一生だ……。俺はこの一つ前の人生で、カナンの民だった」
「!」二人は度肝を抜かれたように目を見張った。
「国を侵略され、妻や子供たち、母も皆、殺された……。この今の身は、そのときの焼き直しのようなものだ。エステルの亡くなった弟、エフライムに似ているのもそのためだ。もしかすると、どこかで血がつながっているのかもしれない」
 あの強大な国家(ペルシャ)の侵略を受け、無残に殺され、母親とわが子も殺害され、妻を凌辱された男の人生だった。
「守るべき家族……妻や子を守れなかった、その悔いがたぶん、今もこの身には焼き付いている。どうだ、オシヲ、俺が憎いか? 前の人生でカナンの民だった俺が」
 オシヲは眼を見開いたまま、凝固していた。
「俺は数多くの人生を、数多くの民の中で生きてきた。このワの民だったことも、幾度もある。おまえたちとこうして会うのも初めてじゃない」
 静まり返った岩戸の前の聖地に、しばし、時間だけが流れた。
「俺が……他の民だったこともあるのかな」いつもは大きなヒビキのオシヲが、かすれた声で言った。
「ある」と、断じた。
 スサノヲの瞳の中で、イタケルもオシヲも殺されたわが子たちだった。それは過去世の記憶を持つ今のスサノヲには、疑いようもない自明の理だった。彼らの姿を見ると、過去の子供たちの面影が重なって見え、得も言われぬ懐かしさが湧いてくる。
「おまえたちも前の人生では、俺と一緒に過ごしていた」
 そしておおぜいの侵略兵に凌辱され、そのさなかで息を引き取った妻。

 それはクシナーダだった。

「俺はもう二度と自分の愛する者を失いたくない。おまえたちと同じように、アシナヅチやミツハを殺された悲しみも怒りも、俺の中にはある。だが、これから俺が行うのは、復讐ではない。ただ愛する者を守り抜くための戦いだ」
 オシヲとイタケルは、圧倒されたように無意識に身を引いていた。
 あの静かだったスサノヲが……と、驚きがオシヲを満たしているのがわかった。それはスサノヲの眼の中にあるもの、全身からみなぎらせているものに感応してのことだった。
「おそらく今こうなっているのは、前世の影のようなものだ。俺やおまえたちは愛する者との暮らしが理不尽に奪われる記憶を持ち、その記憶がここでまたもう一度影のように蘇えってきている。しかし、同じことを無意味に繰り返すのが人生ではない」
「変えられるのかな……」ぽつりと、オシヲが言った。
「かならず俺が変える。いや――」スサノヲは両手で二人の肩をつかんだ。「俺たちが変えるんだ」
 まずイタケルが、スサノヲの手をつかみ返してきた。
「アシナヅチ様が昔、言ってたよ。未来はそれぞれの心が作り出すと。一人じゃなく、たくさんの心が集まって未来を作るんだと」
「俺一人では未来を変えることはできない。だから、力を貸してくれないか」
 オシヲの手がそろそろと昇って来て、迷った後、自分の肩にあるスサノヲの手をつかんだ。
「俺、ミツハに褒められる男になりたかった……」オシヲは自分の手の中にある笛を見つめた。
「…………」
「だから、悔しいけど……」オシヲの目から、ぼろぼろ涙が溢れ、こぼれ落ちた。「あいつら、どいつこもこいつも殺してやりたいけど……」
 息を詰めるような時間の後、オシヲは血を吐くように言った。
「……スサノヲに預ける。そうする……。俺が復讐に狂ったら、ぜったい……ミツハ、俺のこと、褒めてくれねえもん……」
 わあああ、とオシヲは泣き出した。絶叫するようにスサノヲにすがりつき、苦悶し続けた。
 岩戸の聖地に、また雪が降り始めていた。
 それは彼らの悲しみも憎しみも、静かに覆い隠すような雪だった。


「来たようじゃな」
 トリカミの里でナオヒが閉じていた目を開けた。
 それは、後退を余儀なくされたカナン軍と、追い打ちをかけてきたオロチ軍が、トリカミの里へ雪崩を打って侵攻してきた瞬間でもあった。
 トリカミは斐伊川の中流から上流にかけて、その周辺に広がる一帯である。その中心の里は現・雲南付近にあった。オロチは東から日本海沿いに進行する主力部隊と、それから枝分かれして現・鳥取の日南市付から峠越えをする部隊があったが、その枝分かれ部隊はキビからの連合軍と合流、万才峠を抜き奥出雲へと侵攻を果たした。
 それはヒバの脇を抜けて峠越えをしたカガチ部隊との合流を意味したが、それがスムースに進んだのは、いうまでもなく険しい山越えを行い、敵の背後をカガチが突くことに成功したからである。
 カナンは当初、山間部のいくつかの峠(現・島根県と鳥取県の境界線付近)で防衛線を張っていたが、カガチが南から防衛線を破り、北からはタジマと児島の水軍が攻めてきたことによって、戦線を維持することができなくなった。最前線の指揮官たちは撤退命令を出し、イズモに主力を構えるカナン本隊への合流を図ろうとした。
 その結果――。
 山間部のカナン軍が後退する場所は、必然的にトリカミになってしまったのである。
image (12)

 瓦解したカナンの軍は、斐伊川の上流からしゃにむに後退をし、トリカミの里を荒々しく通り過ぎようとした。だが、このときすでにカガチが率いる部隊が、大挙して押し寄せていたのである。
 里の中心部は、打ち建てられた柱と、里の周辺に幾何学的に配置された巨石によって、長く守られてきた。それらが里を守る結界としての機能も果たしてきたからだった。しかし、この巨大な土石流のような情勢の前には、もはや現実的な守りを果たせなかった。
 里人は知る由もなかったが、守りの要であったはずのアシナヅチの命が失われた今となっては、なおさらに――。
 わずかな時間に、静けさに包まれていた里の空気が一変した。甲冑を身に付けたカナンの部隊が、ふらふらになって里に迷い込んできた。それは、少し前にあった出来事の裏返しだった。かつてオロチがカナンによって攻められ、逃げ込んできた。その意趣返しのように、今回は後退するカナンをオロチが追いかけてきた。
 喚声が湧いた。怒涛のようにオロチ兵が侵攻し、カナン兵に襲い掛かった。
 里は血で染まった。
 カナン兵は鎧や、金属を縫いつけた防具を有していたが、この雪と寒さが災いした。重い装備は、深いものではなかったにせよ積雪の戦場では、移動にも戦いにも有利に働かなかった。むしろ兵の体力と体温を奪い、動きを鈍くする足かせだった。
 理性を失ったカナン兵は、やみくもに里の住居に逃げ込んだ。それを追いかけるオロチ兵は場合によって火矢をかけ(カヤを落とされた時のように)、炙り出されてきた敵を殺した。だが、その家にトリカミの里人がいて、逃げ出してきたとしても見境なく殺害した。
「ナオヒ様、このままでここも危険です」山の天候のように、瞬く間に急変した情勢に、ニギヒは老巫女に強く言った。「われらに戦わせてください」
「だめじゃ」
「なにゆえに――このままでは、里人が皆殺されます」
「そなたの手勢は十名ほど。そのような戦力でいかほどことができようか。無駄死にするだけじゃ」
「しかし!」
「剣で立ち向かえば相手を逆上させ、争いが広がり、よけいに里人の命が殺められる。それがわからぬか」
 ニギヒは言葉に詰まり、拳を握り固め、震わせた。
「なら、せめて、守らせてください」血気盛んな皇子は、言葉を食いちぎるように発した。「里人を集め、われらに守らせてください」
「よかろう。じゃが、ニギヒ、生きるより辛い思いをする覚悟はあるか」
「なにを言われます……」
「クシナーダが言うておったろう。立派な心がけじゃと、じゃが、言葉で言うほど簡単ではないと」
「あ……はい」
「そなたにそれができるかどうか、わしに見せてみよ。クシナーダはそなたよりずっと若い乙女の身でありながら、それを為してきた。そなたにそれができるか?」
「どういうことでしょうか」
「スクナという子がおるであろう」
「スサノヲのそばにいつもいた……」
「あの子を連れて、そなたは逃げよ。そしてスサノヲを迎えてまいれ」
「!」
「里人をここへ集め、そなたの手勢にここを守らせるように言い、そしてそなたはスクナと共にここから逃げよ」
「なにを馬鹿なことを……そのような仰せには従えませぬ」
 ふ、とナオヒは笑った。「――ならば、そなたもそこまでの器」
「言っておられることの意味が分かりませぬ」
「よいか、ニギヒよ。失われるものなど何もない」
 老巫女の前にかしずき、その顔を見上げるニギヒの表情に不安定な戸惑い、逡巡が色濃く浮かび上がっては入れ替わった。
「失われるものなどないとしてもな、この世で生きておる者は失ったように錯覚する」
「錯覚……」
「命は錯覚ではない。無意味なものでもない。それを知るためにこのネの世界はある。すべては知るためじゃ」
「知るため……」
「実感するためといってもよい。錯覚の上に成り立つ……そうじゃな、これは遊戯じゃ」
「遊戯……」
「じつは失われるものなど何もない。それでもそなたは失われたと思うであろう。そなたの部下である兵たちを。彼らは死ぬやもしれぬ。しかし、クニの長たろうとするのなら、何を生かし、痛みを伴っても何を選択するのか、考えねばならぬ。時には自分の命を大切にせねば、多くの命を救えぬ時もあるぞ」
「ナオヒ様、すみませぬ……。私には何をおっしゃられているのか……」
「わからぬでも良い。わしの言いたいことは、痛みに耐える勇気を持てということじゃ。わしの言うことを信ぜよ。クシナーダ……あのような若い娘でさえできたことが、そなたにはできぬと?」
「いえ……。クシナーダ様がなされたことなら、私もやってみせましょう」
「なら、スクナと共に一刻も早くここを去り、スサノヲを迎えに行け。里人をここに集めよ。しかし、戦ってはならぬ。ただ、守るのじゃ。そのように兵たちに申し伝えておけ」
「わかりました」
「案ずるな。わしも、そなたの部下たちも、意外にしぶといものよ。生きておるやもしれぬ」にっとナオヒは笑った。

     3

 先行するカガチが率いる先鋒部隊からやや遅れて、ヨサミや巫女たちがトリカミに近づいた。
 近づくにつれ、真っ白な雪が覆った河原、丘、そして森林で、悲惨な光景が目につくようになった。
 トリカミの里へ近づくにつれ、黒煙が空に立ち上っているのも目に入った。クシナーダは事態を悟り、囚われの身でありながら、むしろ先を急いだ。そして目の当たりにしたのは、美しかった里が無残に踏み荒らされ、多くの死体と血が作り出す無残な光景だった。
 そこではまだ戦乱が続いていた。山境の防衛線から後退してきたカナン兵と、追い打ちをかけたオロチ軍が入り乱れての殺し合いが続いていた。そして、その中には足の遅い巫女たちを置いて先行したカガチの姿もあった。
「カガチ、やめさせてください! トリカミの里には手を触れぬという約束です!」
 ヨサミはそのクシナーダの絶叫に、あのカヤを焼かれた時の我が身の悲嘆を重ね合わせた。
 カガチはその声を聴いたかもしれなかった。が、かすかに笑みを浮かべただけで、戦闘をやめようとはしなかった。
 襲い掛かるオロチの兵。逃げ惑うカナンの兵。
 乱入してきた兵士たちに吠えるトリカミの里で飼っている犬。その犬たちも兵の罵声を浴びながら、場合によっては凶刃の被害を受ける。
 里人たちは逃げ隠しているのか、姿はほとんど見えなかったが、おそらくオロチ軍は火を使ったのであろう。里の家屋の数棟から、燃え盛る音と黒煙が上がっていた。その中から逃げ出してくるカナン兵、そして里の人々。
「殺(や)れ殺れ! 殺っちまえ!」
 嬌声が上がり、殺到するオロチ兵たちは、傷を負ったカナン兵たちも、また善意から負傷兵を助けていたであろう里人も、次々に凶刃の餌食にした。それを目の当たりにしたクシナーダは、兵士によって拘束された身をもがきながら、殺される里人の名を一つ一つ絶叫する。
「ミナト! ヤヒコ! ミナワ!」
 クシナーダの叫びを聞いたのであろう、逃げ遅れている里人はすがる思いで、住居を出てきた。そのためにまた矢を浴び、剣で切りつけられる者が続出した。クシナーダは目をそむけ、そしてまた戻し、叫んだ。
「出て来てはなりません! 皆、中にいるのです!」
 発声の限度を超え、声帯が破れてしまうような悲痛な叫びだった。家の中にいたからといって、助かるとは限らない。オロチ兵たちは逃げ込んだカナン兵を捜索し、次々に住居に踏み込んで行き、乱暴を働き続けている。土器の壊れる音や悲鳴が後を絶えない。
 ヨサミはその光景を呆然と眺めていた。なんの感情もなく。
 なにもかもがゆっくりと、時間が粘ったように見える。剣を突き立てられるカナン兵。絶叫。血しぶき。
 逃げ惑う人。人。子ら。あるいは動物たち。
 武器を持たぬ者でさえ、背後から無慈悲に切りつけられる。
 子供であっても、蹴られ、殴られ、そして踏みにじられる。
 泣き叫ぶ声。涙。恐怖。震え。
 そして――

 憎しみと絶望。

 ある時、ヨサミの感情のスイッチが入った。まったく無味乾燥な、白けた情景に見えたそれらが、いきなり色彩を帯び、生々しい現実感を伴って、五感すべてを覆ってきた。阿鼻叫喚が聴覚を満たし、生々しい真っ赤な鮮血が、積もった雪に飛び散るのが目に飛び込んでくる。
「やめて……」震える声がひとりでに口を突いて出た。
 ヨサミは人形のようにぎこちなく、二、三歩前に踏み出した。今また戦闘の巻き添えになり、子をかばって抱いている母親の背が切りつけられるのが目に入る。火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊。
「やめて……こんな……」
 高熱を発した時のようにガクガクと全身が震えた。恐怖が全身を這いまわる。そしておぞましさと鋭い嫌悪が胸を鷲掴みにする。
「こんなのをわたし、望んでない……。わたしは……」
 おぞましいのは自分だった。嫌悪を感じているのは、自分自身に対してだった。自らの憎しみと呪いが、この現実を生んだ。すべてではないにせよ、この現実の一部に、ヨサミは自分が根深く関与してしまい、自らの手を血に染めている自覚をはっきりと持った。
 ヨサミは叫んだ。カガチを呼び続けた。やめて、もうやめて、と。
 だが、戦いに没頭するカガチは、そのような言葉を聞き入れる耳を持たなかった。情け容赦なくカナン兵を殺戮して行く。
 ヨサミとクシナーダは叫び続け、そしてやがて力尽きて崩れ落ちるようにその場に腰を落とした。どちらの泣き顔も憔悴しきったものだった。
 二人の背後には、夜を徹する山越えを行ってきて、やはり疲弊した巫女たちがいた。彼女らもこの無残な光景の目撃者となることしかできなかった。
 彼女ら巫女は、いわばカガチの連合軍をまとめ上げる人質のようなもので、親衛隊によって守られているというよりも、事実上は拘束されていた。彼女らはそれぞれ打ちひしがれたクシナーダやヨサミのところへ行こうとしたが、その親衛隊に押しとどめられてしまっていた。
「ヨサミ……」アナトらの目にも涙があった。
 ヨサミの受けている悲しみと衝撃。そして自責。
 それはすべてアナトらキビの巫女たちが共有するものでもあった。この戦闘に参加している多くの者も、キビの国から招集された兵士だからだ。その兵たちがいかに情勢とはいえ、トリカミの里人たちをも傷つけている。命を奪っている。幼子を槍で突き刺し、残忍に高笑いする。女を犯し、欲望を満たす。そして物を奪い、悦に至る。
 その狂気の連鎖がこのトリカミの里で演じられていた。それまでまっとうに生きてきた男たちであっても、殺し合いという恐怖と高揚の中で、狂わずにはおれないのだ。
 長く穏やかな暮らしを保ち、そしてカガチによる支配と横暴にもかろうじて耐えてきたこの里の平和が、ついに破られていた……。
「アナト様」と、声をかけてきたのは、キビの中でもっとも年若いイズミだった。周囲の親衛隊の耳をはばかりながら小声で言った。「申し訳ありません」
「イズミ……?」
 イズミの横顔には苦渋が浮かび、そして鋭い怒りのようなものが立ち上っていた。
「わたしはカガチからキビが離れることに消極的でした。わたしのワケは、カガチの直接支配するヒメジなどからも近いがゆえに……。しかし、わたしは今、自分に腹が立っています。わたしは憶病でした。トリカミのこの様は、わたしたちの責……」
「イズミ……」
「策を練りましょう。きっと何か道があるはず」
 その時だった。アナトたちの背後で、イスズの声が上がった。「アカル様……いかがなされました」
 見ると、イスズが支えているアカルは真っ青になって脂汗を浮かべていた。両手で胸元を押さえて、苦悶に表情をゆがめている。身体が強くないのに山越えを強行したためかと思われたが、そうではないことがすぐにアナトたちにもわかった。
 彼らが踏破してきたヒバの山を遠くに見た瞬間、アナトはぞくりとする戦慄を覚えた。その山の姿そのものが、異様な鬼気をはらんでいたのだ。同時にうっと呻き声を発し、シキが両手で頭を抱えるようにした。アナトも激しい嫌悪感と頭痛に襲われ始めた。
「あれは……」霊視能力に秀でているナツソが指差した。
 曇天の空は、今は降雪を止めていた。その空に、ヒバの山のほうから言うに言われぬ、真におぞましきものが近寄って来ていた。
 すうっと血の気が引いた。これほどの嫌悪を、かつていかなる毒虫や毒蛇にも覚えたことがなかった。アナトは瞬間的に嘔吐するほどのむかつきを感じ、かろうじて耐えながらその気配を自分の周囲から追い払った。が、それは闇の気配の濃厚さに対して、あまりにもか弱いものでしかなかった。
「いや……いや! 来ないで!」ナツソが悲鳴を上げる。
 巫女たちはこのとき、一人の例外もなく凍り付いていた。
 触れてはならぬもの。
 開けてはならぬもの。
 ワの国の巫女たちの間でひそかに伝えられてきた絶対の禁忌――このトリカミが封印してきたもの――が、すでに解き放たれてしまったと知った瞬間だった。
「ヨモツヒサメ……」口にしたくもないその名をアナトの震える唇が発した。
 巫女たちの動きや視線に、なんだ? というふうに親衛隊も空を仰ぐが、彼らにはその姿を確認することはできない。だが、巫女たちには〝それ〟の存在は現実そのものだった。
 ヨミから解き放たれた禍津神――その中でも、もっとも恐るべき〝死の使い〟であった。悪霊の集合体のようなものが、今やトリカミの上空に忍び寄り、漂っていた。それはただ一体でさえ、抗いがたいほどの強烈な〝負〟の磁場を放射しているのに、その数は八体を数えた。彼らは地上に発生する悲しみや憎しみ、そして絶望の想念を吸い上げていた。
 そして――

 笑っていた。

 その笑みを目撃した瞬間、アナトは発狂しそうになった。
「アナト様!」
 声と共にシキやイズミが腕をつかまなければ、そのまま意識を飛ばされてしまったかもしれない。危ういところでそのがけっぷちに留まり、アナトはどっと放出した汗が一挙に凍りつく感触を味わった。
「何を騒いでいる」親衛隊が不審げに言った。だが、そういう彼らにも、否定しがたい不調感が生じているようだった。顔が青ざめている。
「アナト様、このままでは……」シキがおそらく無意識にだろう、勾玉を握りしめて言った。「この里の人は死に絶えます」
 頷きながらアナトは、自分も勾玉を握りしめた。
「皆、心を強く持って。この里に結界を張りましょう」
「アカル様、大丈夫ですか」
 イスズに支えられながら、アカルもなんとか身体を保持する。
 巫女たちは勾玉を掲げ、その光を空に発し、結界を広げようとした。だが、ヨモツヒサメのあまりにも濃密で強烈な闇は、それをみるみる押し包み、呑み込んでしまおうとした。

 ――イイ餌ガアル。
 ――ゴ馳走ダ。

 巫女たちの存在に焦点を合わせたヨモツヒサメの意識が飛んでくる。それは飢えた獣が、餌食となる生き物を目の前にして、涎を垂れ流すようなものだった。その邪悪さ、欲望の根深さは、巫女たちを残らず震え上がらせた。

 ――コヤツラノ恐怖ハ美味。
 ――ハハハハ!

 光の結界がたわみ、ぼろぼろに腐って行くのが見えた。その穿たれた結界の穴から、ヨモツヒサメの禍々しい〝力〟がどろどろと注ぎ込まれてくる。それはみるみる勢いを増し、土砂崩れのように襲い掛かってきた。
 食われる!
 アナトは死を覚悟した。

 その瞬間、事態に変化が生じていた。打ちひしがれていたはずのクシナーダが、いつの間にか立ち上がっていた。そして勾玉を掲げ、光を放っていた。
 その眩い光はヨモツヒサメたちの圧力を押し返し始めた。
「すごい……」シキが感嘆の声を上げた。
 クシナーダは眼を閉じ、そして歌っていた。花の歌だった。

゚・*:.。..。.:*・゚命は昇る陽(ひ)
゚・*:.。..。.:*・゚光となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの大地を温める

゚・*:.。..。.:*・゚命は巡る月
゚・*:.。..。.:*・゚影となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの道を照らす

゚・*:.。..。.:*・゚命はそよぐ風
゚・*:.。..。.:*・゚息吹となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの身を生かす

゚・*:.。..。.:*・゚命はうるわし花
゚・*:.。..。.:*・゚愛となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの心を満たす

゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚咲き誇れ
゚・*:.。..。.:*・゚おまえの命のヒビキのまま

゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚見せておくれ
゚・*:.。..。.:*・゚愛がこの地を満たすのを

 その歌声がヨモツヒサメの邪気をみるみる中和して行った。
「わたしたちももう一度」アナトは呼びかけた。
 巫女たちは〝力〟を合わせ、結界を今一度押し広げた。そのさなか、クシナーダの歌のヒビキとともに宙を舞うものをアナトは見た。
 天女? 一瞬、そう思った。宙を舞い踊るその女たちの姿は、羽衣をまとった天女そのものに思えた。が、アナトはすぐに気づいた。彼女らはこの里の巫女たちの御霊だと。
 その数は七つ――。
 すでに肉体を失ったトリカミの巫女たちの霊が、今も生まれ育った土地を守り続けているのだった。その巫女たちの舞いとクシナーダの歌声に勇気づけられたように、この地に息づいている草木、花、川、石や土の精霊たちが、地に姿を見せ始めた。それぞれの愛らしい姿で。
 彼らもまた、あらんかぎりの助勢を行っていた。悪しき猛毒の侵入を防ぐため、それぞれの光で、それぞれのヒビキで――。
 結界は拡大し、里全体を包み込んだ。そして、それはもともとこの里が持っていた清浄な〝気〟を維持するために巧妙に配置されたいくつかの巨石と中央の柱とリンクして、強力な結界を構成した。
 ヨモツヒサメたちはその外へ追いやられ、結界内には侵入できなくなった。
「やった……」思わず巫女たちから声が上がる。
 その直後。
「アカル様!」イスズの声。
 ぐったりと力尽きたように倒れかかるアカル。それをイスズが危うく支え、今にも二人とも倒れそうだった。アナトたちも慌ててアカルを支え、昏倒して怪我をするような事態は避けられたが――。
「クシナーダ様!」シキの叫び。
 アナトが振り返った時、勾玉を捧げ上げていたクシナーダの姿はそこになかった。
 彼女は雪原に横たわっていた。

     4

「こっちだよ。早く」
 小さな体のスクナが、山野を駆けて行く。ニギヒはそれについていくだけで精いっぱいだった。薬草取りのため、周辺の土地の獣道や抜け道のことも知り尽くしているというスクナは、時に子供でしか通れないような木々が折り重なった穴を抜けたりもした。華奢な少女とは思えぬほどすばしっこく、体力もあった。
 いい大人のニギヒのほうがむしろ息が上がりそうになったが、里をかなり離れたところでようやく沢に沿った歩きやすいルートに変わった。どうやらスクナは散り散りになったカナン兵やオロチ兵に遭遇する危険を考えて、およそ人が歩くような場所でないところをあえて選んでいたらしい。
「岩戸はこの川の上流にあるんだよ」と、スクナが言った。
「スクナはそこへ行ったことがあるのか」荒い息を整えつつ、ニギヒが訊いた。
「うん。まえに薬草取ってて、たまたま迷い込んじゃったんだ。あとでアシナヅチ様に言ったら、そこが岩戸だって教えてくれた」
「どれくらいかかる」
「半日――ああ、もうちょっとかかるかもしれない」スクナは何気なくニギヒの足もとあたりを見ていた。ニギヒの足ではもう少しかかりそうだと踏んでいるのだ。
「私のことなら心配するな。ついて行くから」
「でも、スサノヲが戻ってきているんだったら、もしかしたらどこかで会えるよ」
「なるほど。そう願いたいな――」
 茂みが騒ぐ音が二人の会話を中止させた。斜面の上方から鎧の立てる音とともに、男たちの話し声も聞こえた。
 ニギヒとスクナは顔を見合わせ、沢に転がっている大きな岩の背後に回った。
 カナン兵たちだった。五人いた。彼らは警戒しながら山の斜面を下ってきた。
「大丈夫だな」
「ああ、オロチのやつらはたぶんもうトリカミのあたりまで進んでいるはずだ」
 彼らはもともと峠を防衛していた部隊だった。しかし、戦況があまりにも不利だったため、一度戦線を後退させたところで、夜陰に道を見失った者たちだった。
「ここからもう少し西へ迂回して、イズモのエステル様に合流しよう」
「…………」
「どうした?」
「いいのか、それで」
「何を言う」
「この戦、俺たちは負けるぞ。あのオロチの大将の戦いを見たか。あの化け物には誰もかなわない」
「なんだって……」
「いや、シモンの言うことはもっともだ」
「ヤコブ、貴様もか!」
「いいか、カイ、冷静になれ」
 彼らは沢へ降りてきたところで口論を始めてしまった。
「数だって違いすぎる。おそらくイズモも落とされる」
「じゃ、どうするんだ。ここは俺たちのために神が下された土地だぞ。ここ以外にどこで生きるというんだ」
「半島に戻り、もう一度、戦略を練り直すのだ」
「馬鹿な、ここまで来て……」
 彼らが早く通り過ぎてくれれば何も問題はなかった。が、彼らは足を止めてしまった。このままでは目に留まってしまう危険を感じ、スクナとニギヒはさらに岩の裏側へ回ろうとした。そのとき、スクナのつま先が小石を突き動かし、これが転がり落ちた。
「誰だ!」
 神経過敏になっていたカナン兵たちの反応は素早く、彼らの眼は岩陰に二人を見出した。
「オ、オロチだな!」
 五人は剣を抜き放ち、いっせいに詰め寄ってきた。
 ニギヒも剣を抜き、岩陰から出た。背後にスクナをかばいながら。
「われらはオロチの者ではない」と、ニギヒは言った。
「オロチでもないのに、なんでこんなところにいる」そう叫んだのは、カイだった。
「私はツクシの者だ。この戦いに巻き込まれたに過ぎぬ」
「なんでもいい。俺たちがここにいたことを報告されたら困る」
「ただの民がそんなご立派な剣を持つかよ」
「きっとカガチの連合国の者だ」
 死の恐怖と戦い続け、ひと夜を逃げ延びた者たちは、保身しか頭になかった。喚き声をあげ、斬りかかってくる。ニギヒは剣を合わせ、押し返した。と思うと、すぐ別な者が剣を突きだしてくる。あわやというところでかわすが、岩場に足を取られ、尻餅をついてしまう。
 斬られる、と思った瞬間、ニギヒに迫ってきていたカイの顔面にこぶしほどの石が命中した。スクナが投じたものだった、頬骨のあたりを押さえるカイがひるんだ隙に体勢を立て直し、ニギヒは巨岩を背に剣を構えた。
 武装も違う。相手が五人もいては、どうにもならなかった。
「スクナ、そなただけでも逃げろ。スサノヲを迎えに行け」
「だめだよ、そんな!」
「スサノヲだと……?」カイはなおも顔面を片手で押さえながら、ふと正気に返ったような反応を示した。
 その時、風が吹いた。山の斜面を風が茂みをざわつかせ、駆け下りてくる。それにつれ、木々に残る雪が舞った。
 その風は二人がよりどころとする巨岩の上に降り立った。
「スサノヲ!」スクナが頭上に立つ影に叫んだ。
 スサノヲは抜刀すると、剣を無造作に一閃させた。その剣圧がとてつもない〝気〟となって、五人のカナン兵全員に強烈な衝撃波を叩きつけた。剣に触れるわけでもなく、彼らは残らず吹っ飛ばされていた。カイは沢に背中から倒れ、ずぶ濡れになる。
 ニギヒが驚嘆の眼差しを送る中、スサノヲは剣を鞘におさめ、二人の前に降り立った。
 やや遅れ、斜面をイタケルとオシヲが下りてきた。そして現場の状態を見て、目を丸くした。

 ヘックショイ! ヘックショイ!――と、幾度もカイはくしゃみを連発させ、鼻水を垂らしていた。しかも左頬は青あざを作って腫れあがっている。
「ちくしょう、踏んだり蹴ったりだ」と、恨めしそうにぼやく。「スサノヲの知り合いだっていうのなら、先に言ってくれよ」
「命があっただけでもめっけものだと思うのだな」スサノヲは冷たく言った。「五体をばらばらにすることもできたのだからな」
 カイが大げさに震えたのは、寒さのせいか、あるいは恐怖を感じたのか。
「モルデ兄さんが言っていたよ。絶対にスサノヲと事を構えてはならぬと。よく分かった」
 彼らは沢の岩場で、しばし、話し合っていた。
「アシナヅチ様とミツハが亡くなったなんて……」スクナがショックをあらわに、力なくつぶやいた。目に涙がある。
「あのままにしておけなくてな、岩戸の近くに弔ってきた。それで戻るのに時間がかかっちまった。すまん」と、イタケルが言った。
「トリカミは今どうなっているんだろう。父さんや母さん……それにナオヒ様も」
 オシヲの言葉に、ニギヒが答えた。
「私が最後に見た時には、逃げ込んできたカナンはほぼ討ち取られていました。私の連れてきた兵たちは、祭殿に里人を集め、それを守っている状態だった。あのまま戦いが終わったのなら、ナオヒ様も、あるいは多くの里人も助かっているやもしれませぬが……」
「しかし、それ以前にかなり里には被害が出ていたんだろう?」と、イタケル。
「はい。里人は逃げてきた傷ついたカナン兵を助け、それが仇となったようです」
「カナン側に付いたと思われたってことか」
「かもしれません」
「カガチのやつ……」オシヲの眼に暗い炎のようなものが揺らめいた。「クシナーダ様にトリカミには触れぬと約束したのに……」
 空気が変わった。
 沈黙が生じた。重い沈黙であり、それはその場に居合わせたカナン兵たちの胸にも、鋭く突き刺さって来るものだった。
 その静けさの中、一羽のカラスが彼らの頭上の木の枝に止まった。スサノヲは眼を上げ、しばらくその黒い影を見つめていた。
「スサノヲ……?」スクナが気づいて、声をかけた。
 やおらスサノヲは、自分が首にかけていた朱の領布(ひれ)をつかみ、それをオシヲに差し出した。きょとんとして、オシヲは見つめ返した。
「オシヲ、この領布を預かっていてくれ」
「え……なんで?」
「いいから。預かっていてくれ」
「うん……」
「未来を信じろ。この世を去ったミツハが、いつかおまえがこの世を去るとき――ずっと先だろうが――そのときには必ず迎えてくれるはずだ。そのときにおまえが、ミツハに誇れるおまえでいるのだ。そのことだけを考えろ」
「ああ……」オシヲは戸惑いながら領布を握った。
「カイ――」スサノヲは身を乗り出した。「カナンは償いをせねばならぬ」
「償い……?」
「〝殺すなかれ〟〝盗むなかれ〟〝隣人の家を欲しがるなかれ〟――おまえたちは、おまえたち自身の存在意義に背いている。おまえたちはいったい、この島国の何百、いや、何千人を殺した? どれほどのものを盗み、そしてどれほどの隣人の家をわがものとした?」
「な、なぜ、十戒を……」カイは真っ青になった。
「そんなことはどうでもいい」
「そ、それは……。その教えは、わが同じカナンの民の中でだけで存在するもので……」
「つまり異教徒の民には適用されぬというのだな」
「そ、そうだ」
「おまえらのいう唯一の神は、いったいどこまでを創造したのだ!」
 スサノヲの怒号は、その場の全員の体を地震のように動かした。
「この地上のすべてではないのか! ならば、このワの国、おまえらが執着する豊葦原瑞穂の国も、おまえらの神が創造したということではないのか! でなければ、この国の権利を主張することなどできぬぞ!」
「…………」
「異教徒ならば殺してよいのなら、おまえらの神はこの地上のすべてを創造していないことになる」
「い、いや、しかし、神は常に信仰に背く者は滅ぼし、選ばれた者だけを救ってきた」
「かの洪水やソドムとゴモラのときのようにか」
「そうだ。神はこの地すべてを創造されたが、神の教えに背く者がいるだけのこと」
「つまり神の教えに背く異教徒なら殺してもよいと?」
「そ、そうだ……」
 そう言ってから、カイは、そして他のカナンの兵士たちは、スサノヲやその場にいる、ニギヒ、スクナ、イタケル、オシヲらの顔を見た。動揺しきった眼差しで。
「それで良いと本気で思うのか――と、エステルに伝えよ」スサノヲは静かに言った。「自分たちだけが選ばれた民、神に愛されていると者だと、世界中に声高に叫んでみろ。そして望むところすべてを手に入れてみようとしてみろ。未来でも同じような者たちが必ず現れ、いたるところに船出し、その土地を神の名のもとに得ようとするだろう。だが、おまえらと同じように、自分たちの神と信仰こそが唯一のもので、他は認めぬという民がもしおまえらとは別に現れ、おまえらに対峙したらどうなる?」
「…………」
「どちらかを完全に滅ぼすまで、その戦いと憎しみは消えることがなくなるのだぞ。それが神の意志だとでもいうのか? 何も知らぬ赤子や、善良な人々を、おまえらがこの地でいかほど殺したか。この先もそれを続けることを、おまえらは人としてそれを望むのか」
「…………」
「神ではない。人として考えよ。そのようにエステルに伝えよ」
「わかった……」
「ならば、行け」
 カイは周囲の様子を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。同調したように、他の四人のカナン兵も立ち上がった。
 彼らは去って行った。
「スサノヲ?」スクナが、今一度、不審げに言った。
「みんな、先にトリカミに戻ってくれ。たぶん、そこはオロチ軍が占拠しているだろう。気を付けて、中の様子を探ってくれ」
「スサノヲは?」
「俺はここで一つやることができた。必ず追いかけるから、先に行ってくれ。イタケル、それにニギヒ、オシヲとスクナを頼む」
 スサノヲは上空を見ていた。誰もがその様子に不審を感じていた。今は一刻も早くトリカミに戻らねばならぬはずだった。それ以上に重要な使命はないはずだというのに、スサノヲは何か違うものに意識を向けていた。
 まさか――イタケルは立ち去りながら、嫌な予感に胸をつかまれ、思わず振り返っていた。
 その胸騒ぎ、嫌な感触は、アシナヅチとミツハが殺されたとき、岩戸の前で感じたそれを思い起こさせた。


「これは……どうしたというのだ」
 トリカミに残存するカナンの兵士たちをあらかた血祭りにあげ、戻ってきたカガチは不審と戸惑いを隠せなかった。巫女たちは一カ所に集まり、気を失っているクシナーダとアカルを介抱していたからだ。親衛隊もこの異常な事態に、巫女たちの行動に制限をかけ続けることはできなかった。意識をなくした二人はまるで死人のような肌の色をし、冷たくなっていたのである。血の気というものがなく、かすかに上下する胸が呼吸があることを伝えてくるだけだ。
「何があった」
 巫女たちは沈黙を守っていた。カガチは苛立ち、声を荒らげた。
「アカル……アカル!」
 怒声のような言葉に、アカルは薄く目を開いた。だが、それだけだった。唇は震え、声を発することもできず、また目は閉じられた。
 カガチはみずから手を伸ばし、巫女たちの輪の中からアカルの華奢な体を抱き上げた。
「おい、クシナーダも連れてまいれ」
 巫女たちは連合軍をまとめ上げるための人質のようなもの。死なせてしまっては元も子もない――という打算以上の動揺が、カガチには見られた。みずからアカルを抱き上げ、運ぶ横顔をヨサミはずっと見ていた。
 さきほどまでの、戦場での悪鬼の如きカガチではなかった。トリカミの里の中心部にある家屋の一つに運び込むと、カガチは部下に向けて怒鳴った。
「火を持って来い! 暖めろ」
「カガチ、わたくしたちにお二人を見させてください」イスズが言った。「男ではどうにもなりませぬ。今は一刻を争います」
「……わかった。任せよう」
「衣を着替えさせます。お出になってください。それからここの里人に言って、着替えを持ってこさせてください」
 カガチは床に横たわった二人の巫女を見、それから家を出た。ヨサミはカガチのそばへ、ほとんど本能的な動きで近寄った。
「なにがあった」
「…………」
「答えよ」
「はっきりとはわかりませぬ……」ヨサミは枯れたような声で、ようやく言葉を返した。「なにか恐ろしいものが里を覆っていました。それを二人は……いえ、皆が押し返したように感じました」
「恐ろしいもの? お前は見てはおらぬのか」
「わたしはもう……〝力〟をすべてカガチ様に捧げておりますゆえに」
 チッ、とカガチは舌打ちした。そして向かったのは、少し離れた場所にある大きな祭殿だった。その前にある広場にトリカミの里人が集まっていた。数はざっと百名近く――。子供の泣き声や怪我人の呻き声が聞こえる。戦闘に巻き込まれ、ここへ運び込まれた者も大勢いるのだ。
 その里人の集団を十名ほどばかりの屈強な男たちが守っていた。たまたま逗留していたイト国の客人だという話だったが、いずれも優秀な兵士であり、オロチとカナンが入り乱れた混乱時にも、集まった里人を守って戦い、犠牲者を最小限に留めた。そのような手練れの兵がこの場にいたことに、カガチは胡散臭さを感じていた。
 その兵士たちも含め、里人の集団を、今はオロチ連合の兵たちが包囲していた。
 里人たちはカガチが近寄ってくると、恐れおののきながらも身を乗り出すようにする者もいた。彼らはクシナーダたちが運び込まれたのを見ていて、自分たちの巫女のことを案じていたのだ。
「巫女の着替えを二着、用意しろ」と、カガチは誰にともなく命じた。「聞こえぬのか! 貴様らの巫女が死にかかっておるのだぞ」
 クシナーダ様が……と里人に動揺が走った。女が一人、群衆の中から抜け出てくる。
「衣を取りに行ってもよろしいでしょうか」おずおずと尋ねる。
 カガチは顎をしゃくり、促した。女は駆け出して行った。
「そなたがカガチか」群衆の中から出てきた老婆が言った。「わしも行ったほうが良いと思うが」
「何者じゃ」
「ツクシのアソの巫女、ナオヒという」
「ナオヒ様……?」ヨサミはその名を聞き、少なからぬショックを受けた。
 カガチはそんなヨサミをわずかに振り返り、老巫女に向き合った。
「アソの大巫女様か。お初にお目にかかる」
「わしもクシナーダとアカルの手当てをしたいが、よろしいかのぉ」
「アカルのことを知っておるのか」
「親戚筋じゃからな」杖を頼りにナオヒは歩いてきて、カガチの前に立った。「アカルはその〝力〟と引き換えに、体は極めて虚弱じゃ。それはそなたも知っておるのではないか」
「治療ができるのだな」
「アカルを癒したいのなら、わしを行かせることじゃな」
「癒せなかったら?」
「こんな老いぼれ、いつ命を取ってくれてもかまわぬぞ。アシナヅチを殺めたようにな」
 固唾を呑み、聞き入っていたトリカミの里人を深甚な衝撃が襲った。アシナヅチ様が?! とざわめきが動揺と共に広がる。
「アシナヅチもミツハももはやこの世におらぬであろう? そなたらが命を奪ったのではないか」
「結果的にはそうだな」
 この瞬間、剣呑な空気が里人の間に流れた。いかにトリカミが穏やかな民だとしても、ここに至るまでにカガチの暴虐は、忍耐の限界に達していたと言っていい。その上、首長まで殺されたと聞いて、殺気立つなというのは無理な話だった。
「アシナヅチはカナンとの戦に巻き込まれた。ただ、それだけのこと。今も好んでこの里の者を殺すつもりはない。――だが!」カガチは鋭い眼光と威圧的な声を民の頭上に投げた。「われらの邪魔をするというのなら話は別だ。俺に目障りだと思われぬことだ。あのクシナーダを生かすも殺すも、おまえら次第――」
「ずいぶんと弱々しい言葉じゃ」
「なに?」
「人を信じられぬから、安心するための材料が欲しいのであろう。それにしがみつき、声高に叫ぶ。それはそなたが弱いからじゃ。今までもそのようなやり方をしてきたようじゃが」
「貴様……」カガチは剣を抜き放ち、ナオヒに向けた。
「はっはっは」と、ナオヒは刃の下で笑い声を立てた。「この枯れ木のような老いぼれ一人、殺すことでしか憂さを晴らせぬか。弱い弱い」
 ぶるっと剣が上下に震えた。が、カガチはわずかな葛藤の後、剣を引き、鞘に収めた。
「年寄りには口では勝てぬわ」
 にっとナオヒは皺だらけの顔で笑い、里人たちを振り返った。「――皆、わしの言葉をアシナヅチの言葉と思うて聞いておくれ」
 里人の目が、ナオヒに集まった。
「かように弱き者の脅しに怯え、絶望することなどない。皆、真の強さとは何か、考えるのじゃ」
 そう言うと、ナオヒは里人に背を向け、クシナーダたちが運び込まれた棟へ歩き出した。
 しばらく沈黙があったが、一人の男の里人が動き出した。カガチのそばを通り過ぎ、オロチ兵の包囲の外へ出ようとする。むろん兵士は剣を向け、出すまいとした。
「どけ。まだたくさん怪我人がいるんだ」里人が決然として言った。
「そうだ。亡くなった者も弔わせてくれ」そう言いながら、また別な里人が立ち上がった。
 次々に同調した里人がいっせいに動き出した。
 兵士たちはどう対処していいものか、困惑した。もの問いたげな表情で、自分たちの王を見る。カガチはまた舌打ちした。武器も持たない者たち――しかし、断固として動き出した彼らを押しとどめる術はなかった。あるとすれば殺してしまうことだけだが、それをするのはあまりにも億劫に感じられた。殺意がそこまで掻き立てられないのだ。
「好きにさせてやれ。クシナーダがこちらの手にある限り、こいつらは言うことを聞くしかない。だが、そのイト国の連中からは武器を没収しろ」
 カガチの命令で兵士たちは動いた。イト国の兵はそれに従った。
 祭殿のそばから人が広がっていく。怪我人も、それぞれの家へと運ばれていく。子供たちもそれにつき従った。
 やがて広場には誰もいなくなった。
 そうなるまでカガチは、動かずにそこに立っていた。彼には民たちのことは、何一つコントロールできてはいなかった。
 その背中をヨサミは見続けていた。喉元まで出かかった言葉が出なかった。
 ――アカル様はあなたのいったい何なの。
 そう尋ねたかったのだ。


 ――良イノカ。
 大きなカラスを媒体に、サルタヒコが告げた。
 ――アノ領布ナクシテ、よもつひさめニ対峙ハデキヌゾ。イヤ、タトエ領布ガアッタトコロデ、焼ケ石ニ水デアロウガナ。
「あの領布がなければ、オシヲや他の者が危険にさらされる」スサノヲはつぶやくように応え、そして剣を抜いた。
 ――馬鹿者ガ。一人デ何ガデキヨウカ。
「黙っててくれ」
 ――来ルゾ。
 スサノヲは見た。
 無数の蛾が覆い尽くすように、空が闇に塗り替えられるのを。

     5

「ナオヒ様!」
 入ってきた老巫女を見て、アナトが大きな声を上げた。いっせいに振り返った巫女たちを順に見返し、最後にアナトのもとに視線を戻したナオヒは言った。
「久しぶりじゃな、アナトよ」
「は、はい――」アナトは我に返ったように反応し、老巫女の前に膝を折った。
 他の巫女たちも同様に動こうとするが、ナオヒはそれを制した。「そのような堅苦しいこと、今はよい。それよりも……じゃ」
 横たえられた二人の巫女は、ちょうど濡れた衣を着替えさせられたところだった。まだ意識は失ったままである。
 ナオヒは二人の間にしゃがみ、それぞれ順番に自らの手を心臓のあたりにかざした。
「ふむ……クシナーダは大事ないじゃろう。一度に霊力を使いすぎたのじゃ。この娘(こ)はもともとわりあい丈夫じゃからな。いずれ意識を取り戻すじゃろう」
 ナオヒの言葉通り、クシナーダの頬は少し血色を取り戻しつつあった。
「問題はアカルじゃ」
 アカルはまるで死人のような顔色のままだった。は、は、という短く浅い呼吸が、まるで死期が迫ったかのようにか細い。
「皆で今、〝気〟を注いでおりましたが」と、アナトが。
「それだけでは足らぬ。アカルはな、とてつもなく敏感な霊媒体質を持っておる。そのため、あのものどもの穢れを受け取ってしまったのじゃ。それを吐き出させねば」
「どのようにすれば?」
「そなたらは〝気〟を入れてやっておくれ。わしがやってみよう」
 ナオヒは仰向けに横たわるアカルの身体を転がすように横向けた。老体でも可能なほど、細くて軽い身体だった。巫女たちは輪になり、手をかざした。彼女らの掌から生命の力が、見えざる波となって送られる。その中でナオヒは祝詞(のりと)のようなものを口ずさみながら、しばらくアカルの背を撫で続けていた。そして、あるときポンと背を掌で叩いた。
 けほ、とアカルは喉につかえていた何かを吐き出すように咳き込んだ。すると、にわかに気道が開いたように大きく息を吸い、そして吐いた。
 ああ、と巫女たちは希望に満ちた声を上げた。
 アカルは眼を開いた。が、うっと口元を押さえ、背を波立たせるようにした。嘔吐に耐えているのだ。
「器を……」ナツソがその家にあった大きな鉢を持ってきた。
「我慢するでない。すべて出してしまうのじゃ」
 一瞬、ナオヒの声にアカルは振り返り、誰かということを認識したようだったが、激しい嘔吐感に襲われ、鉢の中に胃の内容物を吐き出した。肉体が受け取ってしまった穢れを猛然と拒絶し始めたのだ。ナオヒはずっとアカルの背をさすっていた。吐くものがなくなっても、えづきはなかなか止まらず、アカルは苦しみ続けた。
 ようやく収まってきたときには、もう精も根も尽き果てたような状態で、またぐったりとなってしまった。
「ナオヒ様……おひさしゅうございます……このような有様で、申し訳なく……」
 意識を失いつつも、そんな言葉を口にした。
「よいよい。今はゆっくり眠るのじゃ」ナオヒはアカルの手を握り、笑顔で眠りの世界に送り出した。
 アカルには幾枚もの布がかけられ、家の中の囲炉裏でも火が焚かれ続けた。やがて彼女の顔にも血の気が戻ってきた。体温も上がってきたようだった。
「よかった……。大丈夫ですね、もう」アナトが心底の安堵を込めて言った。
「うむ……」
「ナオヒ様がこちらにおわしましたとは……ありがとうございます」
 あらためてアナトは、ナオヒの前で身を低くした。他の巫女たちもそれに倣った。
「勾玉のヒビキに引かれたかの……。それはそなたらも同じであろう」
 巫女たちは顔を見合わせた。
「お初にお目にかかる者もおるな」
 この中でヤマトのイスズ、そしてキビの中ではイズミとシキは、ナオヒとは面識がなかった。
「わたくしにもご紹介ください」
 声がして、一同ははっとなった。
 クシナーダがそこに身を起こしていた。まだ少し顔色の冴えないところはあったが、はっきりとした眼差しをしていた。
「クシナーダ様……」
 巫女たち――とりわけキビの四人の巫女たち――は固まってしまった。時間までもが凝固してしまったような後、彼女らはこぞってクシナーダの前にひれ伏した。
「も、申し訳ありませんッ!」叫ぶように言ったとき、アナトの双眸から涙が溢れ出し、床を濡らした。
「申し訳ありません」
 巫女たちは続いて異口同音に言った。
「本当に……本当に申し訳なく思っております。何とお詫びしていいか……言葉もございません」
「アナト様……。わかっておりますよ。あなたがたも家族を囚われ、苦しいお立場」
「しかし、トリカミの里をこのように血で汚し、あまつさえ、ヨモツヒサメを呼び出す結果となってしまいました。何もかも、わたしたちが至らず、カガチに組し続けたため……」
「カガチには逆らえぬでしょう。あなた方も自らの国を守っていたのですから」
 シキやナツソは顔を伏せたまま、声を上げて泣き始めた。それは他の巫女たちにも伝播した。クシナーダは彼女らのほうへ寄り、そして一人一人を抱くように、そっと背に手を置いた。
「もうおやめください。わかっておりますから」
 イスズもクシナーダの前に膝をつき、頭を下げた。
「ヤマトのイスズでございます。わたくしからもお詫び申し上げます」
「イスズ様……あなた様のこと、ずっと感じておりましたし、お噂に聞いておりました。ヤマト・ミモロ山におわす予知の巫女様と」
「クシナーダ様にはとうてい及びませぬ」
「皆様、お顔を上げください。皆様の眼を見てお話しとうございます」
 そう言われ、巫女たちは顔を上げた。キビの巫女たちは頬や鼻を赤くし、いまだに泣き声を押さえられずにいた。クシナーダを前にして、自分たちが胸に溜めていた罪悪感が心情の吐露とともに決壊したようになっていた。ちょうど悪さをした子が、母親の前で打ち明けるときのように。
 この中でクシナーダよりも年若い巫女は、イズミしかいなかった。にもかかわらず、彼女ら全員にとっての母性として、クシナーダはそこに存在していた。それは理屈ではなかった。
「皆様のお辛さは、わたくしは誰よりもよくわかっております。わたくし自身、とても罪深き者……」クシナーダは静かに語ったが、その表情には濃い憂愁の色が滲んできた。「実の姉であるアワジをはじめ、このトリカミの里にいた年上の巫女たちは、ずっとカガチの犠牲になってきました。それはすべて、この時が至るのを待つため、そしてわたくしを生かすためでした」
 衝撃を受け、巫女たちは言葉を失い、クシナーダの告白を聞いていた。
「守ろうとした父母も殺され、最初に姉が連れ去られるとき、姉はわたくしとアシナヅチ様に申しました。何があっても最後までわたくしを生かせ、と。それがすべてを救うことになると……」塑像のように語るクシナーダ。しかし、そのつぶらな瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちた。「姉もまた予知に長けた巫女でした。アシナヅチ様も……わたくしも……ある未来を視ていました。それはある光がここへ到着し、闇を払う未来でした。その光を待つためには、わたくしは生きなければなりませんでした。ひとり……生き残っていくこと……愛する者の死を見守りながら、自分だけが生き続けること……それは何にも増して辛うございました」

 その言葉を戸口のすぐ外で聞いている者がいた。ヨサミであった。
 彼女は家の中で泣き声がしているのを聞き、誰かが亡くなったのかと危ぶみ、戸口のところまでやってきたのだ。だが――。
 ――同じだった。
 ヨサミは痛烈な衝撃と悲しみに胸を貫かれていた。泣き声を上げるのを堪えるため、両手で思い切り口を封じなければならなかった。
 ――クシナーダ様は自分と同じだった。
 たった今まで、ヨサミはそのようなことは想像にすらしていなかった。父母を殺され、愛する国を滅ぼされ、ただ一人生き残ってしまった苦しさ、辛さ、悲しさ、そして孤独。
 それは誰にもわからぬものと思っていた。
 だが――
 ……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……。
 迫ってくる夕闇の中、ヨサミはその場にうずくまり、心の中で繰り返していた。

 クシナーダは涙をぬぐった。が、むしろ彼女の告白を受け、他の巫女たちのほうが泣いていた。年長で冷静なイスズでさえ、涙を禁じ得なかった。
「え……と。あらためて自己紹介を致しませんか」
 クシナーダは気分を変えようとするように、ナオヒのほうを見た。
「そうじゃな。わしは親戚筋のアナト、ナツソ、アカルは知っておるが」
「親戚筋なのですか?」
「……もともとキビのアゾというのは、大巫女様のいらっしゃるアソから取られた地名です」ようやく泣き止みつつ、アナトが説明した。
「アカルのおるタジマのあたりにも、アソ海という砂州で仕切られた海があるのじゃが、それも同じじゃ」と、ナオヒが補足した。
「まあ、海の名前にも?」
「クシナーダなど知らんじゃろうが、昔アソの御山の中にはそれはそれは大きな湖があっての、同じように呼ばれておったのじゃ」
「ナオヒ様はご覧になったことが?」
「あるものか。何千年も昔の話じゃ」
 巫女たちは二人のやり取りにふっと笑った。
 が、その直後、クシナーダが別なものに気を取られた。
「スサノヲ……?」
 彼女の眼は大きく見開かれ、はるかかなたを見るように視線を送った。
 その瞬間、地が揺れた。


 空を満たす闇は、霊視的なものというには、あまりにもリアルだった。もちろん山間に忍び寄る夕闇などでもない。
 そもそもスサノヲには、巫女が持つような霊視能力はなかった。が、サルタヒコと会話するときのように、ある種の波長にはセンサーが働くことがあった。サルタヒコとはまったく異なるが、その〝存在〟もなぜか彼が認識できるチャンネルの一つだったようだ。
 闇は、蛾か蝙蝠かが無数に羽ばたくようなイメージだった。それが集まりながら舞い降りてきた。スサノヲの目の前に――。
 それは一個の人のような形を維持しつつ、茫洋と揺らめく影となった。
〝影〟は嘲笑(わら)っていた。そのように見えたというよりも、それが伝わってきた。
 ――オマエカ。
 言葉にすれば、そのような思念である。〝影〟はスサノヲに関心を示し、同時に嘲笑っていたのだ。
「ヨモツヒサメ……」スサノヲは手にした剣を振り向けた。
 すると嘲笑的なものが、さらに大きくなって押し寄せてきた。
 ――ソノヨウナモノ、ワレラニハ何ノチカラモ持タヌ。
「そうかな……? やってみなくちゃ、わからんだろう」
 言下に、大気がびりびりと震えるような波動が生じ、それはスサノヲに集まり始めた。凝縮されるエネルギーがみるみる増大して行き、収まり切れないものが身体のまわりで爆ぜた。
 爆発するようにスサノヲは〝影〟を斬った。
 その〝力〟は、カイらカナン兵たちを吹っ飛ばしたときの比ではなかった。放出されたエネルギーは周囲の木々を薙ぎ払い、太刀筋に沿って抉り取ったような痕跡を大地に刻み付けた。
〝影〟は跡形もなくなり、粉々に消え去った。
 気配も消えていた。
 スサノヲは周囲を見まわし、剣を鞘に収めた。そして、歩き出した。渓流に沿った道を、イタケルたちの後を急ぎ追うために。

 ビチャ

 音がした。それは普通の川の流れ音ではなかった。流れの中に何者かが足を踏み入れるような、そんな異音だった。

 ビチャ
 ビチャ

 スサノヲの歩みに同調するように、その音は追ってきた。振り返ると、川の流れが異常だった。
 岩も何もない川の流れの真ん中に、何かがいた。二本の脚がそこへ突っ込まれているように、ある二つの場所だけ、流れが迂回しているところがあった。
 ――キヲツケロ!
 それは以前にも聞いた、サルタヒコの警告だった。
 またあの嫌な気配が生じた。無数の蛾が集まるように、真っ黒な羽ばたきが集まり、その川の流れの上に〝影〟となった。〝影〟から無数の触手のようなものが、バネに弾かれるような勢いで伸びた。その一本はスサノヲに向けたものだったが、彼は反射的に横へ飛び退いてそれを避けた。
 が――。
 四方八方へ延びた闇の触手は、渓流沿いに植生する樹木の幹に絡みついた。すると、 樹々はまるで生命を吸い取られたかのように、みるみる枯れた。
 闇の触手は間髪を入れず、スサノヲに襲い掛かってきた。彼は剣を抜き払い、襲来する触手を退けた。彼の放つ〝気〟は、闇の触手に対してまったく無効ではなかった。が、あまりにも数が多すぎた。神速を持つ彼の剣技とて、無限のように増え続ける触手に対応しきれるものではなかった。そして、どんどん森が枯れて行った。
 野獣の吠え声が響いた。
 それは岩戸への往路、遭遇したツキノワグマだった。胸元に鮮やかな月の紋章を持つその熊は、出現するや、猛然と〝影〟に向かって突き進んで行った。
 豊かな恵みを持つ山々を穢し、枯らす存在。
 それに対するはっきりとした敵意をむき出しにし、熊は咆哮し、向かって行った。だが、彼にも触手が突き刺さり、絡み付いた。
 熊は山々を震撼させるような苦しげな喚き声を上げ、飛びかかろうとしたまさにその空中でもがき苦しんでいた。そして――。
 みるみる色を失った。
 灰色のような、白っぽい存在へと変容し、身が――そして骨が――宙に霧散して消えた。
 ――ワレハ〝死ノチカラ〟
 ――ワレニ触レルナ。
 ――ワレニ触レレバ腐レル。
 ――触レレバ滅ビル。
 死そのものの宣告が迫ってくる。たった一体のヨモツヒサメ。
 それにスサノヲはなす術もなかった。
 触手の一つが、スサノヲの胸を貫いた。
「!」
 その瞬間、スサノヲは自らの命がとてつもない勢いで、吸い取られていくのを感じた。
 肉体がそこから、急速に乾燥して、ぼろぼろに崩れていく――。
 絶叫した。
 と、同時に地が揺れた。
 ――ここで俺は死ねない!
 スサノヲは渾身の〝力〟を集め、剣を振った。触手を断ち切り、その身体は川に落ちた。
 ずしん、という重い響きと共に大地が鳴動した。ものすごい地震が生じ、その振動がありとあらゆるものを囲繞(いにょう)した。巨大な自然のうねりにヨモツヒサメも動きを止め、様子を伺った。触手に枯らされた樹々は真っ先に倒れ、そして生きている立派な樹木さえも、みしみしと悲鳴を上げ、しなり続けた。
 そして、山の一部が決壊した。上流で川の流れに制約を加えていた巨岩が動き、転がり落ちた。と、同時に堰き止められていた水が、その決壊した場所を中心に一挙に周囲の山土を粉々に突き崩し破壊しながら奔流となって駆け下った。
 スサノヲはもがき苦しみながら、身を起こした。
 その彼が見たのは、自らに襲い掛かる土石流だった。

2015_01_25


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