いつもと同じ路線バスを降り、スーパーで買い物をした。
一人分の買い物。すぐに終わるが、レジに向かう途中で桜餅があるのに気づいた。三個入り。それをかごに入れた。
買い物の短い時間で、日はすっかり落ちてしまい、街は暗くなった。
アパートまで五分の道のり、同じように帰宅途上の人の群れに混じって、塾帰りだろうか、中学生になるかならないかくらいの女の子がわたしのそばを駆けていく。
「ママ!」
そう言って戸建ての住宅の前で自転車を止めた女性のところへ。
笑顔になって迎える母親。
二人は一緒に家に入っていく。
そんな当たり前の光景を見るたびに胸が締め付けられる。
誰もいないアパートの部屋に帰宅。
出迎えてくれるのは、下駄箱の上に置いている写真立てだ。いつも出かけるときに玄関に置くようにしている。
その中で笑っているのは、わたしの夫であった人と離れている子供、そしてわたし。
その写真立てをワンルームの部屋の中にある小さなテーブルに戻す。
「ただいま」
そう言ってみるのも日課だ。
この日課があまり辛くなくなったのは、最近のこと。前は声をかけるたびに泣いていた。でも、声をかけずにおれなかった。
何か音がほしいという理由だけで、昨年、寿退社が決まった同僚から譲り受けた古いテレビをつけた。
ニュースをやっている。
――本日11時45分ごろ、宮城県の沖合でマグニチュード7.3の大きな地震が発生し、津波注意報が出され、大船渡市などで0.6メートルの津波が観測されましたが、地震による大きな被害はありませんでした。気象庁は今後も余震が心配されるとし、警戒を……
この頃、地震があちこちで多い。怖い。
買い物を冷蔵庫にしまう。冷蔵庫の中から小鍋を取り出す。
昨日作ったカレーはまだ二食分ほどある。今夜と明日の朝……いや、明日は残業確定なので、もう一度夜に回すことにしようと思う。
鍋をコンロの上に置き、スーパーのレシートを持って家計簿をつけた。今月は5万入れられそうだ。自分名義ではない通帳を開き、次の入金でとりあえずの目標である7桁になるのを確認する。
こんなこと自体、単なる自己満足かもしれない。
でも、こんなことでしか罪滅ぼしができない。
この二年半、いつか……ということだけを支えに生きてきた。
万に一つもないと、頭ではあきらめている。
でも、いつか、と思うしかなかった。そのために、何か形になるものを残しておきたかった。それが別れた夫名義の通帳だった。
カレーの前に、お茶を入れ、桜餅を食べた。
桜餅独特の甘さと塩味、それから懐かしさと苦しさが、ないまぜになり……胸の中に何かが立ち上がってきて泣いた。
――桜餅、好きなんですか。
若い夫の声と表情が浮かび、それから堰を切ったように、いろんなことを思い出し、よけいに泣いた。
夫――聡史とは、大学時代に出会った。
同じゼミで、春に仲間たちでそれぞれ好きなものを持ち寄って花見をしようという話になったとき、初めて親しく話をした。
お酒が飲める学友たちはビールなど持ち込んでいたが、わたしはお酒が好きではなかったし、彼も一滴も飲めない体質で、しかも和風の甘いものが好きだという共通項をこのときに発見した。
それもお汁粉とかぼた餅とか落雁とか。
わたしは桜餅も持ち寄っていたので、彼は目を輝かせた。
「桜餅、好きなんですか?」
「あ、はい。おいしいですし、ほら、きれいじゃないですか」
「俺も桜餅、大好物なんですよ。実家のすぐ近くに和菓子屋さんがあってね、そこのがすごくうまいんですよ」
「よかったら、どうぞ」
「やった。ありがとう」
わたしたちの頭上には、満開の桜が淡い光の帯のように広がっていた。
それからわたしたちは交際するようになった。
大学を卒業後、それぞれに就職したが、交際は続いていた。
二人が25歳になる年、結婚した。その二年後、子供を授かり、わたしは仕事を辞めた。
翌年、生まれたのが亜弥だった。
ちょうどその頃から、聡史に出張が多くなっていった。勤め先が急速にフランチャイズを拡大している外食チェーンで、彼は新店舗立ち上げに関わる部署で勤務していたため、一週間、あるいはひと月くらいの出張もざらだった。
この頃、少し距離ができた。
帰宅しても、聡史は疲れ切っていることが多く、夫婦の会話も減っていた。
そして、わたしは不倫をしてしまった。
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