何も言い訳はできない。当時の自分があまりにも未熟で、おかしかったとしかいいようがない。
当時、わたしは何も楽しみがないように感じていた。特にこれといった趣味もなく、秀でた職能があるわけでもなく、ただ子育てをし、夫は仕事ばかりで見向きもしてくれないと、勝手に思い込んでいた。
そんなとき大学時代の学友・明山と街で偶然に再会した。
明山は聡史と共通の友人だったが、本当はわたしに好意を寄せてくれていた男性だった。聡史との交際中に一度告白されたが、もちろん断っていたし、そのためか自然と疎遠になっていた。
明山はある自動車のディーラーで販売員として勤務していた。懐かしさもあり、しばらく話し込んで、連絡先を交換した。
しばしばメールが来るようになり、日常の不満や子育ての辛さや細かい苦労を彼に相談するようになっていた。彼もまた既婚であり、奥さんとの関係での悩みを打ち明けてきて、お互いに癒やしを求めるような関係に。
肉体関係になってしまったのも、そんなに時間がかからなかった。
「まだ若いんだし、僕たちにだって楽しみが必要だよ。絶対バレたりしないし、家庭さえ壊さなければ何も問題ないよ」
当時のことを思い出すと、そのたびにうめき声を上げたくなる。
愚かな自分を責め、失ったものを悔い、なによりも夫を深く傷つけてしまった罪悪感で押しつぶされそうになる。
でも、当時のわたしにはそんな危機感はなく、明山との交際に酔っていた。
「家庭さえ壊さなければ――」という呪文を繰り返し心で唱え、壊れるはずもないと考えていた。
自分が他で心が満たされる分だけ、気持ちのない夫にも優しくなれた。
聡史はその頃からどこかよそよそしくなり、さらに会話も減っていった。疲れているといって、わたしとのセックスも拒むようになっていた。
その反動で、わたしの心はよけいに明山に向かってしまった。
明山とは心に深い絆が生じ、何でもわかり合える相手だと錯覚した。夫の留守中に子供を実家に預け、幾度も逢瀬を重ねるうち、「家庭を壊さない楽しめる関係」から、妄想が膨らんでいった。
いつかお互いに離婚して、新しい家族になろう。
何があっても僕が君を守る。
わたしもあなたと暮らす日が一日でも早く来るのを願っているし、毎日の支え……。
夢物語を言葉やメールで語り合っていた。
わたしは明山との交際期間の半年、夫の変貌にほとんど気づかなかった。
夫はその半年の間に、すごく痩せていた。体重にして、10㎏近く落ちていた。どこかで意識することがあっても、仕事が忙しいのだなということを、まるで他人事のように思っていた。
でも、夫はすべて知っていたのだ。
それも、ごく初期の段階から気づいていた。
ある平日の昼間、わたしは明山を夫や子供と暮らす賃貸マンションに招き入れた。それが初めてではなかった。子供はうまいこといって、やはり親元に預けていた。明山とはディーラーの休日、水曜日の昼間に会うことが多かったのだ。
毎回、明山がマンションにいた痕跡は完全に消していた。ベッドのシーツも取り替えていたし、部屋も隅々まで掃除していたし、性交渉に関するものはすべて自宅内から持ち出し処分した。その足で、娘を迎え帰宅すると――
夫がすでにリビングにいた。ギクッとした。いつもは深夜帰宅が当たり前なのに――。
「お帰り――」
屈託のない笑顔。2歳になったばかりの亜弥が「パパ」といって駆け寄っていき、彼が抱き上げる。平静を装って尋ねる。
「どうしたの。早いね、今日は――」
「うん、だって、今日は結婚記念日だろ。定時で上がってきた」
ショックを受けた。結婚記念日だということを、わたしはすっかり忘れていた。ずっと夫婦で祝ってきたし、子供が生まれてからも、その日は特別な日として、わたしはごちそうを用意したりしていた……
「桜餅、買ってきたんだ。ほら、いつかいってただろ。駅前にできた新しいお店。あそこの」
「あ、ありがとう。ごめんなさい。わたし、うっかりしてて」
「いいよ。おまえだって、子育てで大変なんだから」
「ごめんなさい」
「じつはさ、寿司を取ってあるんだ。さっき頼んだから、もうすぐ届くと思うよ。それでお祝いしようよ」
「ごめんなさい……」
わたしは本当の意味で謝っていなかった。結婚記念日を忘れていた失態をどう取り繕うか、ごまかすか、そのための言葉だった。
今日何をしていたかと問われたとき、なんと答えようとか、そういうときの言い訳は日頃から用意していた。でも、この日ばかりは言い訳を用意していながらうまくごまかせそうにないと感じた。
けれど、夫は何も問わなかった。
寿司が届き、夫は珍しくよく食べた。もうずっと夕飯は済ませてくることが多く、わたしの作ったものは口に入れてもすぐに箸を置いていた。
この夜は、上機嫌で、これも滅多にないことなのだが、いつかの頂き物で冷蔵庫に収納されっぱなしだったビールを飲んだ。社会人になった後も、体質的にほとんどアルコールを飲むことはなかったのに。
その夜、夫はわたしを求めてきた。
夫はずっとセックスレスだった。明山に気持ちが行っていたわたし自身、それを好都合と感じていた。夫に抱かせたくないと、時々、明山が心配していたからだ。
しかし、この日は拒めなかった。
交際期間を通じて、きっと初めてだというほど、夫はわたしを強く求めた。幾度も。
わたしはうれしかった。
自分が忘れていた結婚記念日を大切にしてくれたこと。
このところずっとなかったような笑顔を見せてくれたこと。
こんなふうに自分を欲してくれるのなら……とさえ思った。その後ろ側で、同じ日の昼間、明山に抱かされていた罪の意識が胸を締め付けた。
明山とは別れた方がいいのかもしれないと刹那、思った。
翌朝、目が覚めると、ベッドに夫はいなかった。
トイレに起きたのかと思い、リビングに出て行った。「あなた」と呼びかけたが、気配はなく、テーブルには昨夜の桜餅と、その横に一枚の便せんと緑の用紙が並んで置かれていた。
便せんには一行だけ。
――すべて知っています。
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