――すべて知っています。
頭が真っ白になった。
わたしはたぶん、かなり長い間、その一枚の便せんの文字を見つめ、その場に凝固していた。そして、隣の離婚届に記入されている夫の署名と捺印を交互に見つめていた。
「すべて知っています」という言葉の意味が、ちゃんと頭に入ってくるまでに、とても長い時間を要したように感じた。
理解することを、たぶん拒否していたのだと思う。
娘。
あるとき、頭の中でつながり、わたしは寝室に駆け戻った。「亜弥! 亜弥!」と叫びながら、ベビーベッド(まだ体が小さいので、そのまま使っていた)を確認した。
寝室の隅々まで確認し、次にはマンションの隅々を確認し、玄関のドアを開け、通路を確認した。
そこからは我が家が契約している駐車場スペースも確認できた。そこにうちの車はなかった。
このとき、わたしはわなわなと震えた。
正常な思考はほとんど蒸発していた。
夫に電話をかけた。出ない。幾度もかけた。出ない。
次にしたのは、震える指で明山にメールを送ったことだった。今の状況の説明、夫が何かいってきていないかということ。
しかし、早朝だったためか、明山はなかなか返信をよこさなかった。
明山からの返信を待ちきれず、次に夫にメールを送った。
どうしたの。どこにいるの。何をいっているのかわからない。誤解です。話をしたい。娘をどうしたの。お願いです。連絡をください。
そんな内容のものを何十回と送った。
その間に明山からのメール返信があった。
なにもない。どうしたの、いったい。まさかバレたの?
そんな内容だった。明山に電話した。
「ばか。こんな時間に電話かけてくんなよ。気づかれんだろ」
「だって……」
「ちょっと待て」
移動し、洗面所に入ったのか、トイレを流す音。
「マジでバレたのか」
「わからない。でも、すべて知ってるって。離婚届が置いてあって、聡史はもう記入してあるの」
「とにかくしらを切り通せよ」
「でも、もし本当に全部知られていたら」
「僕はうまくやってたんだよ。そっちのことはそっちの責任で処理してよ」
耳を疑った。
「なによ、それ……。なにかあったら守るっていったじゃない」
「今はちょっといろいろまずいんだよ。嫁さんの実家のこともあって……」
後の言葉は、ほとんど耳に入ってこなかった。言い訳ばかりだったことは、なんとなく印象に残っていた。
何かあっても個別の夫婦間のこと。
配偶者にバレたのなら、それは本人の責任。
だから、何かあったのならそちらで処理しろ。
言葉は柔らかくだったが、いいたいことはそれに尽きていると感じた。
電話を切られ、わたしは誰もいなくなったリビングで膝をついた。
異常に呼吸が荒く、気分が悪かった。自分が真っ青なのがわかる。血圧が異常に下がっているような感じだった。
床に頭を打ち付け、意識を失ってしまった。
しばらくして、手に握りしめたままの携帯電話のバイブレーションで目が覚めた。
意識が回復したとき、「ああ、夢だったんだ! よかったよかった!」と心底喜んだ。しかし、自分が倒れていた場所がリビングの床だったと気づき、これは紛れもなく「続き」なのだと知った。
そのときの真っ暗な絶望感――
今一度、意識が遠のきかけた。しかし、手の中で震える携帯電話のディスプレイにメールの表示があり、夫からのそれだと知り、慌てて開いた。
「本日中に弁護士から内容証明郵便が届きます。以後は弁護士を通してください」
そこから後のことは、もう思い出したくもない出来事の連続だった(思い出したくもないといっても、絶対に忘れることなどなどできない。むしろ終生忘れることなどできない)。
わたしの実家から、内容証明を受け取った両親がその日のうちにやってきた。そして、力尽くでわたしを実家に連れ戻した。父に殴られた。29年(当時)の人生で、父に手を上げられたことなど、一度もなかった。
父は涙を流して殴っていた。母も横で止めながら泣き叫んでいた。わたしを責めるよりも、わたしへの教育が十分にできなかったことの懺悔をしていたのが、父の手よりも痛かった。
それから数日、わたしは抜け殻のように実家で過ごした。その間、幾度も夫にメールを送った。電話もした。しかし、何の反応もなかった。
明山からはパニックのようなメールが大量に来ていた。彼の自宅にも内容証明が届いていて、奥さんにも知られるところとなっていた。気づかれたわたしのことをなじっていたかと思うと、一転して優しくなったり、口裏合わせしてなんとかごまかす算段を提案してきていた。
両親に問い詰められ、すべてを告白してしまったわたしには無意味だった。
こんな男にのぼせあがっていたんだ……
自分に失望した。これほど深く失望したことはなかった。
三日目のあるとき、わたしは実家を抜け出した。
そして、住んでいたマンションに戻った。
そこに夫も娘もいなかった。
多くの家財がすでに運び出されていた。あるのは、わたしの私物だけだった。
そして――
寝室のダブルベッドが切り裂かれていた。
シーツもマットも掛け布団も。
部屋には羽毛布団の羽根が散乱していた。
わたしは夫の怒りの強さを知った。そして瞬間的に悟った。
恐ろしいことを――。
あの結婚記念日――夫は、わたしが明山とマンションで会ったことも知っていた。このベッドで何が行われていたか知っていたのだ――。
切り刻まれたベッドの残骸はそれを物語っていた。
そう悟ってやっと、愚かにもわたしは「もしかしたら」と考えることができた。
もっと前から夫は知っていたのではないか。
だから、わたしの作ったものなど食べることができなくなり、日常的なストレスから痩せてしまったのではないか。
眠るときもベッドはあまり使わず、リビングのソファで仮眠をすることが多くなっていた。ベッドはいやだったのではないか。
もしかしたら、わたしが拒絶されていると思ったセックスも……わたしの不倫が先で、それを知ってしまったから……
妻が浮気相手を招き入れ、行為をしているとわかっている部屋に毎夜戻ってきて過ごしていた夫の気持ちを想像し、ぞっとした。
怖くて震えた。自分のしでかしたことのあまりの残酷さに。
自分が怖かった。
謝りたかった。ちゃんと夫に謝りたかった。
ごめんなさいと叫びながら号泣した。そこで、何時間も泣いていた。
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