面会日の二日前。
あの日がやってきた。
3.11――
派遣で勤務していた会社のオフィスもパニックになった。余震の続く中、背筋が凍るような情報が次第に入ってきて、帰宅命令が出された。個別の会社の事情などよりも、この国が根底的に覆るような大きな危機感が直感的にあった。
地震発生直後から、わたしは幾度も聡史の携帯電話にかけていたが、まったくつながらなかった。メールを送っていたが、それも届いているのかどうかもわからなかった。
聡史と娘のことが心配でならなかった。
交通網が麻痺した中、誰もがそうであったようにわたしはアパートへ歩いて帰った。踵のあたりがすりむけ、痛みに耐えながら歩き続けた。
聡史の実家は、アパートからさらにその先にある。だから一度アパートに帰ってから、そのまま向かうつもりだった。
時折襲ってくる余震が怖かった。それ以上に聡史と娘のことが案じられてならなかった。歩きながら幾度もメールをしていた。
今、アパートに戻っている途中です。心配です。ごめんなさい。後からそちらへ伺ってもいいですか。
しかし、アパートに戻れたのは深夜だった。
いつも出かけるときに玄関に置く写真立てが下に落ちていた。ガラスが割れていた。胸騒ぎがする。
そのとき、携帯電話が鳴った。メールの返事がようやく来た!
無事です。亜弥も大丈夫。来てください。
ほっとした。それにうれしかった。「来てください」という表現に――。
わたしは動きやすい服に着替え、ぼろぼろの古いスニーカーに履き替えた。そして、再び歩き出した。
離婚後、わたしは自分の実家を出た。あれだけのことをしでかして、両親に甘えて過ごすなど、とてもできなかったし、聡史の実家の比較的近くで生活をしたかった。あまり近くではきっと嫌がられる。そう思い、駅二つ離れたところにアパートを借りたのだ。
深夜の道は、あり得ないほど人であふれていた。
徒歩で帰宅する人々に混じって、聡史の実家にたどり着いたのは、午前3時頃だった。が、家を前にしてわたしは体がこわばってしまった。
子供との面会の時は、たいていどこか外で待ち合わせる。自分の不貞発覚以来、この実家を訪ねるのは初めてだった。
どの面を下げて会えるというのだろう。離婚が決定的になって、両家の話し合いが行われ、そのときにご両親に会ったきりだ。聡史のお母様の鋭い侮蔑に満ちた言葉や眼差しが、今でも心に焼き付いている。
胸がドキドキした。
無事が確認できたのだから、ここまで来る必要はなかったのではないか。訪ねていったら、不愉快に思われるのではないか。いや、そうに決まっている。来るべきではなかったのではないか。
迷っていると、ふいに玄関の扉が開いた。
聡史だった。彼はわたしを見つけると、ほっとした表情を浮かべた。
「ああ、着いたんだね。中へ入って」
心配で何度か外の様子をうかがっていた、ということだった。
「い、いいかな」
「もちろんだよ。さあ」
非常時でなければ、敷居をまたぐことはなかっただろう。
リビングにご両親がいた。慄然とせざるを得ない光景を幾度も映し続けるテレビの画面を見入っていたが、わたしが入っていくと気づいた。
ああ、とお母様はわたしの名を呼び、立ち上がった。
「来れたの! よかった。大丈夫だった?」
手を差し伸べられ、腰から砕けそうなほど安堵した。
「はい。ありがとうございます。あの、こんなときなんですが、来てしまってごめんなさい」
「歩いてきたのかね。いやまあ、そうだろうな。疲れたろう」
と、お父様も気遣ってくださった。
「亜弥は……?」
「今は寝てる。ただ余震を怖がって、何度も起きてきた。僕らも眠れなくてね」
「様子を見に行って、いい?」
「ああ、こっちだ」
案内された部屋で亜弥は眠っていた。寝顔なんて見るの、いつ以来だろう。閉じたまぶたや鼻筋にかけて、ますます聡史に似てきた。
つい、そっと髪に触れた。
ずしっという響きとともに、また余震がやってきた。かなり大きい。
ぱちっと亜弥が目を開けた。おびえた表情の後、すぐにわたしに気づいた。
「ママ?」
「うん、ママだよ」
ママだ、ママだ、といって亜弥は両手を伸ばしてきた。わたしは思わず娘を抱きしめた。涙があふれた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ」
娘にささやいた。
「ママ、ここにいて」
「うん。いるよ」
しばらくそばにいた。娘は寝息を立て始めた。
ずっと聡史は、同じ部屋の中で見守ってくれていた。
眠りに落ちたことを確認して、わたしは立ち上がり、聡史に頭を下げた。
「ありがとうございます。あなたや亜弥の顔を見て、安心しました。帰りますね」
「今日はもう泊まっていったら」
「え?」
「まあ、泊まるっていっても、もう未明だけど。今日は土曜日だし、電車とか交通機関がもうちょっと正常になるまでいたら?」
「でも、ご両親に申し訳なくて……」
「心配ないよ。――ああ、少し話、できないかな」
わたしは戸惑いながら、「はい」と答えた。
聡史の書斎に案内された。そのとき、足を引きずっているのを見られてしまった。
「どうしたの?」
「あ、歩きすぎて、ちょっと……」
「血が出てない? ああ、そこで待っていて」
大学の交際時代に幾度か訪れたことがあった。聡史の書斎には、すごくたくさんの蔵書がある。わたしには理解できなさそうな科学や宇宙の本がたくさんあるし、小説も書棚をびっしりと埋めている。
落ち着く感じがした。
聡史はすぐに消毒液と大ぶりなガーゼ付き絆創膏を持ってきてくれた。
「出して」
「あの、自分でします。ありがとう」
そんなことまで、とてもしてもらえなかった。
消毒液を返して、もう一度礼をいった。
そういう人だった――とあらめて思った。当たり前にわたしの些細な変化や表情に気づいて、「だいじょうぶ?」とか「どうしたの?」とかいってくれる人だった。
わたしが浮気に走った頃も、それがなくなったわけではなかった。ただ、恋人時代や新婚時代のようにわたしが新鮮に感じなくなっていただけ、彼の仕事のために頻度が少なくなっていたというだけ。
「あの、話って……」と、切り出した。
聡史は悩ましい表情をしていた。いい出しにくいことを抱えているように見え、不安になった。もう面会させてもらえないとか、そんな話か――
あるいは、聡史が誰かと再婚するとか。
それは大いにあり得ることで、いつも不安に思っている。そうなったときには、わたしももうこんなふうには関われないのではないかとも。
「こんなタイミングでなんなんだけど、復縁してもらえないかな」
え――?
「もし君がいやでなければ――それと、たとえば君に誰かお付き合いしている人とかいなければ」
あまりにも唐突すぎて、頭で言葉がちゃんと理解できなかった。嘘ではない。本当に狼狽してしまってわからなかったのだ。
「え? え? ごめんなさい。もう一度いって――」
「だから、よかったら、もう一度結婚してほしい」
「…………」
「だめかな」
ようやく意味が体に入ってきた。その言葉は、この二年半、わたしが心底望んでいたものだった。誰もが思うだろう。そんな言葉をかけてもらって、その瞬間にわたしが小躍りしなかったのはおかしいと。
でも、なぜかそうはならなかった。
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